折花姫伝説 | 歴男の歴史ブログ

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 武田勝頼の部将に小山田信茂という者がおりました。
 信茂は織田氏の甲州征伐の際に主君の武田勝頼を裏切った事で有名な部将でした。

 武田勝頼は長篠の戦い以降多くの武士団が戦死や病死などで脱落していく中、斜陽の武田家を盛り上げるために戦いを繰り返します。
 しかし、多くの外交で失敗を繰り返してしまい各方面に敵を作ってしまったため、小競り合いなども含めて多くの戦いを繰り返さざるを得なくなり国が疲弊してしまいます。

 織田氏は近畿の情勢も落ち着いたため、数多の戦国大名がいる中で最も勢威の強い大名となっていました。
 何よりも朝廷のある都の支配権を手に入れたことで正二位 右大臣兼右近衛大将を叙任され武士の頂点に登り詰めました。
 そして右大臣兼右大将を辞任しました。
 これは恐らく信長が三職に推認を受けて実際にそれに任官するためだったからだと思います。

 三職とは関白、太政大臣、征夷大将軍のどれかです。
 私は恐らく太政大臣に任官される予定だったのではないかと思います。
 朝廷では高位の叙任の際に前任の職を辞職する必要がありました。
 それなので両官を信長は辞職したのです。

 恐らく日本の英雄の誰もが並び立つことの出来ないであろう官歴を持つ日本国王となった足利義満の輝かしい事蹟を簡単に前例にとってみると

 義満は征夷大将軍と右大将を兼務しています。
 父親が征夷大将軍だったため幼い時に先行して征夷大将軍に任官されます。
 義満が幼い時に父の義詮が亡くなった為に先行して行われました。
 その後は参議、左中将などを任官して行き、右大将となります。
 右大将は源頼朝が任官した武官の中でも左大将に次ぐ官位です。
 左大将は右大将の高位の大将でしたが任官例がすごく少ないので武家にとって右大将こそが特別な官位でした。
 義満の拠点は京都だったので右大将を長期間兼務して内大臣、右大臣、左大臣など輝かしい出世を繰り返して行きます。
 しかし、1384年に右大将を辞任します。
 そして1388年には左大臣も辞任します。
 恐らく、この時に太政大臣に任官しようと企んだのでしょうが何らかの事情で任官できず、左大臣に再び戻ります。
 ですが半年ほどで辞任します。
 1394年将軍職を四代将軍義持に譲って辞任します。
 その年の6月に太政大臣に叙任されます。

 義満はこのようにして位人臣を極めるのですが、その義満ですら武官と太政大臣との兼任は叶いませんでした。
 義満に遥かに勢威の及ばない日本の半国も治めていなかった信長に太政大臣や関白と武官の兼任を許されたとはとても思えません。

 また源平交代思想が武家の世に蔓延っていたものの平氏(織田氏は桓武平氏を自称していた)は一度も征夷大将軍に任命されたことはありません。
 仮に征夷大将軍を叙任されたとしても各国には未だ織田氏の威令を認めた勢力はおらず、足利氏に恩顧を受けてきた大名が当時は多くいたし、強国も各地にたくさんありました。
 将軍になった信長の命令に従う大名がいるはずがありません。
 その為征夷大将軍に任命されても自家の中での威信が高まるだけで信長にとっては何ら権威はありませんでした。

 信長は合理的な人物だったので、こんな風に天下統一するまでは特に威令も権威も何もない征夷大将軍や既に政治的な影響力が武家に移って陰が薄くなった関白よりも、名誉職としても重く、何かと朝廷にも口出しを出来て、なおかつ先祖の平清盛の例をとって「俺は清盛の後継者だ」と名乗ることの出来る太政大臣の任官される事こそ最も信長にとってメリットがあったのです。
 信長は平氏の征夷大将軍任官は天下統一後、次代の信忠に譲ったのです。
 そのために私は太政大臣に任官されるために右大臣、右大将の両官を辞職しただと思います。

 話は脱線しましたが、このように信長の勢威は非常に強いものでした。
 天下統一も夢ではありませんでしたので、地方統一を目指して活動を始めました。
 そこで一番最初に目を付けたのが、各国に敵を多く作って弱っていた隣国の武田氏だったのです。

 信長は当時は既に統治者としての権威に拘っていたので戦線に立つことはありませんでした。
 信長の名代で軍勢を率いていたのが既に後継者として名を確立していた信忠でした。

 信忠の甲州征伐は手加減がありませんでしたし、副官の滝川一益も優秀だったのでどんどんと武田氏は勢力を縮小させていきます。
 信濃では殆ど勢力を失い勝頼は父信玄の従弟の小山田信茂を頼って甲斐の岩殿山城に落ち延びようとします。
 この時、秀吉に表裏比興の者と言われた有名な真田昌幸と信茂が二人で議論して落ち延びる先を争いました。
 昌幸は堅城である岩櫃城に逃れるように進めましたが、雪深く行軍困難と判断したため信茂のいる岩殿山城に逃走先を決めました。
 しかし、信頼していた信茂が土壇場で裏切ったため天目山で勝頼は殺されてしまい、武田家は滅亡してしまいました。

 信忠が甲斐を平定後、信茂は人質を差し出すために信忠を頼ります。
 勝頼が最後まで激しい戦いを繰り返せず、簡単に天目山で滅んだのは、信茂が土壇場で裏切ったからでした。
 それだけでも功績でしたが、裏切りの代償が大きかったので信長の信頼を買うために人質を差し出そうとしたのです。
 信忠は土壇場で武田家を裏切った信茂を嫌って咎めました。
 信忠は「不忠」だと言って信茂を捕らえてしまい梟首してしまったのです。

 しかし、武田氏を裏切った人物は何も信茂だけではありません。
 武田氏に禄を食んできた木曽義昌や、穴山信君等沢山いました。
 これらの者は許されたのに信茂だけが非難されたのです。

 自家を守るために庇護できなくなった主君を裏切る、これは一見非難されるべき行為ですが、南北朝以降、戦国時代においては当たり前の行為でした。
 非難されるべきは庇護できなくなった主君に問題があるのです。
 信忠のように信茂の様な輩を簡単に咎めていては、もしもこれが南北朝時代なら全ての御家人が非難されなくてはなりません。
 信忠の理論で言うならば足利尊氏は間違いなく磔の上で火刑になっても全くおかしくありませんでした。

 織田家は新興の勢力でした。
 尾張半国から始まり、勢力を伸長させてきた大名でした。

 主君信長は元は斯波氏の被官で尾張の守護代(代理守護、雇われ店長みたいなもの)の家系でした。
 その為、自分の領地など持っていませんでした。
 尾張自体が斯波氏の領有する領地だったので尾張の国内の抗争は斯波氏の部下同士の争いでした。
 父親の信秀の代に尾張の半国を強引に領有して勢力を伸ばしたので、織田家に古くから仕える家臣達は当然知行地も猫の額のような広さでした。
 その家臣に至る者達に領地などあるはずはありません。

 信長はそんな何もない所から勢力を伸ばしてきたので、当然信長の家臣も殆どが領地を持っていませんでした。
 そんな信長の家臣は誰もが信長の直参でした。
 直参の家臣は信長が勢力を伸ばした後、その功績に応じて知行をもらいます。
 信長の勘気に触れれば「返せ」一言のみで奪われます。
 織田氏は侵略して勢力を伸ばしてきたので土着の農民も赴任してきた被官に愛着がありませんでした。
 その為支配者の信長が領主でないと一言言えば余程の善政を施した者以外は領民に簡単に否定されます。
 信長の家臣として権勢を欲しいままにするためには信長に気に入られなければなりませんでした。
 しかし、信長は賢い人物だったので下手な追従は許されません。
 信長に気に入られるためには追従が必要だったのではなく忠実であることが必要でした。

 その為織田氏はものすごく強い勢力となったのです。
 織田家が滅びれば当然家臣は滅びます。
 勢力を伸ばせば知行地も増えて利権もそれだけ拡大するのです。
 
 私は織田信長から土着の領主へ「知行地を安堵した例」を余り見たことがありません。
 私の戦国時代に対する知識量の問題もあるのでしょうが、信長へ仕えた有力部将は全員が尾張時代、岐阜時代から仕えた領地を持たない新興武士達でした。
 柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀全員が昔の鎌倉御家人のような古くからある在地領主ではなかったのです。

 信長の狂気にもにた破壊行動は土着領主の匂いを全て消し去って織田家が認めた新興領主に入れ替えて権益を拡大するための行為だったのにほかありません。
 小山田氏も土着領主の一人でしたので目を付けられていたことは確実でした。

 一方信茂が仕えた武田氏は違います。
 武田氏は甲斐源氏と言って古くは平安時代から続く名門の家系でした。
 甲斐の隣の信濃には村上源氏の庶流で南北朝時代に大塔宮の身代わりになって自刃した村上義光の血を引いた村上氏があり、同じ甲斐源氏庶流の小笠原氏や信濃の名門木曽源氏の血を引く木曽氏や神官の諏訪氏等私が知る限りでもこれだけの豪族犇めく中で武田氏は勢力を伸ばしてゆきました。

 信玄は強力なライバルである小笠原氏、村上氏を滅ぼした後は勢力拡大を効率良く行うために在地の領主を取り込みました。
 諏訪氏の姫を側室にして子供(勝頼)を産ませたり、領地を安堵して庇護下に置いたりなど方法はたくさんありますが、確実に言えることは信長のように「在地領主の既得権益を破壊して部下の権益に入れ替える」ような強引で面倒なやり方を避けて「在地領主の既得権益を認めて取り込んで」力を強くしていったのです。

 武田家は頂点に甲斐の武田氏を置きながらもその行動は在地領主の合議のもとに動いていたのです。
 その為に真田氏と小山田氏の間で逃亡先を議論して決めたのです。

 武田家はこのように在地領主を武田氏の強力な軍勢を下に庇護して権益を確保していったので、その為勝頼は自らの庇護下から外れようとする在地領主に「俺の庇護のもとにいれば安心だぞ」と示す必要性があったので戦いを繰り返さなければならなかったです。
 しかし、在地領主が「もう庇護してもらえない」「庇護してもらう必要性が無い」と判断し有力豪族の手から外れれば在地領主は当然「新しい庇護の先」を求めて動く必要性があったのでした。
 主家を大切にして死を賭して働くことは美しいことでしたが、戦国時代の思想は江戸時代のような朱子学思想に支配されていなかったので行動は自由です。

 この理論によると小山田信茂は非難されるに及ばないはずでしたが、織田氏の新しい「自分の既得権益のために信長(ひいては次代の信忠)に忠実となれるか、なれないか」と言う観点からは外れる存在でしたので、許されなかったのだと思います。
 木曽義昌が嫌悪されなかった理由は甲州征伐を前に織田氏に信濃の道案内が必要だったことと、勝頼と義昌の関係が長篠の戦い以降冷えきっていたため、裏切るに足る理由があったためだと思います。
 信茂の裏切りは情勢の切り替わりに際してあからさまでした。
 その為に嫌悪されたのでした。
 恐らく信茂はなぜ自分が信忠に非難されたか分からないまま死んでしまったことでしょう。

 このような理由で突然主人の信茂は殺されてしまい、岩殿城の小山田一族はその為に混乱してしまいます。

 小山田行村は信茂の一族で百足衆と言う精鋭の一人であり、岩殿城の城代を任せられる程の武士でした。
 主人の信茂は小山田氏の命運をかけて織田家に人質を差し出しに行きました。
 人質を差し出すという事は既に降伏しているということなので、よもや悪い話など舞い込むはずがないと思っておりました。

 しかし、信茂は突然殺されてしまったのです。
「信長は小山田一族を滅ぼしに来る」
 領主を殺してしまった以上は速やかに領地は接収し功績のある者に与えなければなりません。
 こうした理由で行村は滅ぼしに来ると考えたのです。
 こうなっては躊躇してはおれませんので行村は一族を纏めて早々に岩殿城を脱出しました。

 もはや織田氏の支配圏になっている信濃や上野に逃れることはできませんが後北条氏ならかつては同盟国、むしろ小山田氏は武田氏の家臣で行村はその家臣ですので悪いようには扱わないはずです。
 逃亡先は北条氏の支配する相模原とし奥津久井に逃れることに決めました。

 しかし、信忠の行動は早く信茂を討ち取ると早々に岩殿城に兵を差し向けていたのです。
 落ち武者への追跡は激しいものでした、行村の一行も早々に捕捉されそうになります。
 行村には折花姫と言う美しい娘がおりました。
 この折花姫が捕えられればどのような悲しい目に遭うのか、それだけが悲しくて、不憫で仕方ありませんでした。
 せめてもこの娘だけでも逃れて欲しいと願い、折花姫がなついていた姥と翁を付けて逃れさせました。

 自分はもはや最後と敵を引き寄せて奮戦しますが、数多くの銃弾を受けて討ち取られてしまいます。
 父親を討ち取られて絶望の淵に追い込まれながら折花姫一行はか細い足で必死に逃れますが、追跡が激しく、再び捕捉されそうになります。

 この時代の良家の姫は捕まるとどうなるのでしょうか?
 織田軍の統率は厳しいものがありましたので、陵辱などの行為によって屈辱的に扱われるようなことは無かったでしょうが、自害を強要されるのか、美しい姫ならば誰かの武士に下賜されて生き残ることが出来るでしょうが、中々そうはならないでしょう。

 しかし、始末が悪いのは追いかけて来る織田軍の中に混じった人攫いでした。
 これはもはや問答無用です。
 どのような運命が待っているかが分からないので姫たちは必死でした。
 織田軍に追いつかれそうになると姥は姫から打掛を奪い取って敵陣の中に飛び込みました。

 父が身代わりになり姥が身代わりになる。
 悲しい出来事が続きましたが、二人の死を無駄にはできませんでしたので、念仏を唱えながら逃亡先を目指して足を動かすしかありません。

 津久井は渓流や谷が多い場所で進むも退くも難しい地でした。
 それを足弱な者達がゆくのですから強健な戦い慣れた武士達が追いつくのは簡単でした。
 二人は渓谷の吊り橋を渡ろうとしている所でしたが、追手の武者達が面倒だと言わんばかりに火縄銃を構えて放ちました。
 多くの銃弾が放たれた中で一発が翁の背中に当たります。

「もはやこれまでです。此処から先は一人でお逃げなされ。」
 そう言って刀を構えて敵陣に飛び込みます。
 翁はさすがに元は武士でしたので、奮戦いたします。
 壮烈に戦って何人かを道連れとしましたが、すぐに討ち取られてしまいました。

 姫はもはや一人となりました。
 三人もの人間が身代わりになって死んでしまい、なんとしても逃亡しなければなりません。
 姫は念仏を唱えて阿弥陀様に三人が極楽往生出来ますようにと祈りました。

 姫は追手から逃れようと必死に走りましたが、いつの間にか敵の重囲の真ん中にいました。
 「敵の手に落ちるくらいなら・・・」いつの間にか懐に忍ばせていた懐剣に手が伸びていました。
 懐剣はもしものことがあればと行村が姫に贈ったものでした。
 姫も武田が強い間はまさかこの懐剣に頼ることがあるとは思っておりませんでした。
 とても美しい姫でしたので、周囲はどのような男性に嫁ぐのか、武田の子息に嫁ぐことが出来ればどれだけ幸せだろうかそれだけが心配の種でしたが、今は武田よりも織田が強いのです。
 折花姫は時代は移ろいやすいものだと感じました。
 
 懐剣に手を伸ばして「南無阿弥陀佛」と十回口ずさみ懐剣を胸に突き立てました。

 津久井ではこの折花姫を哀れんで「ばば宮」「じじ宮」「姫折宮」と言う祠が建てられ今も住民に祀られているということです。
 姫が念仏を唱えながら逃走した山道は「阿弥陀申し」と名付けられました。

 津久井には今もたくさんの折花姫伝説があり、実は無事に落ち延びたが後に捕まって磔の刑にされたと言う話も残っていますが、定かではありません。