「心臓が止まっているから治療しろ!」と救命救急センターに歩いてやって来たオッサンの話 | オズの魔法使いのコーチング「Et verbum caro factum est]

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故ルー・タイスの魂を受け継ぐ魔法使いの一人として、セルフコーチングの真髄を密かに伝授します

ずいぶん昔のことですが、実際に目撃した話です。
某有名病院の救命救急センターの入り口で、歩いてやって来たオッサンと病院職員が言い争っていました。
オッサンいわく、「心臓が止まっているから治療しろ!」
対して病院職員の返答、「精神病院へ行ってください!」


心臓は無意識に機能します。であるから、何かに熱中している時や眠っている間に、心臓を動かすことを忘れるバカはいない訳です。
そして御本人がどんなに「心臓が止まっている」と頑固に主張しても、心臓君は健気にも無意識のうちに働いてくれます。全身に血液を送ってくれるので、歩くことも主張することも言い争うことも可能なのです。


認知科学以前と認知科学以降では、リアリティーの定義が異なります。
認知科学以前では、脳の外側に実在すると勝手に思い込んでいた世界がリアリティー(現実世界)の定義です。しかし、人間には脳内情報状態(内部表現)以外の世界は知り様が無いので、現実世界があったとしても誰にも知り様がないことになります。
認知科学以降では、臨場感のある脳内仮想世界がリアリティーの定義です。臨場感があるとは、仮想世界の変化に反応して、整合的な体感の変化が伴うことを意味します。仮想世界とホメオスターシスフィードバック関係を持つと換言できます。そして人間は、複数の仮想世界とホメオスターシスフィードバック関係を持つことができます。ホメオスターシス同士のバランス状態を、心理学ではゲシュタルトと表現します。
仮想世界をブリーフを言い換えると、コーチング用語としてのブリーフ・システムのことになります。


上記のオッサンの「心臓が止まっている」は、認知科学以降のリアリティーに該当します。しかし同時に「生命維持」をゴールとする仮想世界へのホメオスターシスも維持されているので、心臓君は無意識に働いてくれているのです。「心臓が止まっている」と言い争うことが可能なほどに心臓が働くことが、オッサンのゲシュタルトです。


仮想世界の臨場感が強くなると、本当に心臓が止まってしまうこともあります。それがゲシュタルトです。
現代でも悪霊と戦って死んでしまう僧侶がいるそうです。悪霊のいる仮想世界とホメオスターシスが強くなり過ぎると、整合性のあるゲシュタルトを維持するために、心臓が止まることが要請されてしまうのです。


その点からすると、上記オッサンの「心臓が止まっている」臨場感は、さほど強くないといえます。よく考えると、「『心臓が止まっている』仮想世界」でなく、「『心臓が止まっている』と言葉で主張する仮想世界」に強い臨場感を持っていると言えます。少なくともゲシュタルトのレベルではそうであるから、整合的に心臓君が無意識に働いてくれるのです。


ここが、この記事のポイントです。オッサンの「心臓が止まっている」を「ゴールの世界」に置き換えると(セルフ)コーチングへの教訓となります。


「ゴールの世界に臨場感を持っている」と言葉で主張することは論外です。「ゴールの世界」とは現状の外側なので臨場感は持てません。臨場感を持てたら現状の枠内でありゴールではありません。極めて初歩的な語義の問題です。


「ゴールの世界」には具体的な臨場感を持つことは不可能でも、一段抽象化された中間ゲシュタルトなら可能です。「ゴール達成を前提として動き出している仮想世界」ないしその表裏として「ゴールへ動き出している自己イメージ」なら臨場感を持てます。世界(宇宙)と自己イメージ(自我)は表裏一体です。どちらも脳内仮想世界の情報状態(内部表現モデル)であり、視点の方向が違うだけです。
動き出している仮想世界でも自己イメージでも、どちらでも臨場感が徹底的に高まれば、リアリティーとして目の前に結実します。ゴールへの中間ゲシュタルトがリアリティーとなれば、後は勝手に進展します。


ここで問題となるのが、「『ゴールへ動き出している』仮想世界」への臨場感か、「『ゴールへ動き出している』と言葉で主張する仮想世界」への臨場感かということです。
「言葉で主張する仮想世界」に臨場感を持つと、上記オッサンの例の通り「主張できるように」無意識が整合的に機能してくれるでしょう。ただし、「主張できる」だけで、主張通り「ゴールへ動き出している」か否かは全く不明です。
心臓が動いているか止まっているかは、言葉で主張することではなく、脈拍や血圧や心電図などで観察し評価することです。
同様に、どの様な仮想世界に臨場感を持っているかも、言葉で主張することではなく、観察し評価することなのです。


パーソナルコーチングの枠組みでは、臨場感を持っている仮想世界を観察・評価するのは、コーチの役割です。クライアント御本人が言葉で主張される内容は、とりあえず無視して、非言語で観察します。
観察なくしては、どう書き換えるべきか不明であるからです。「自称・心停止」に対して、心臓の治療が成立しないことと同じです。
セルフコーチングの枠組みでは、これをセルフで、つまり自分独りでやることになります。そのためセルフコーチングプログラムでは観察・評価のための視点が用意されています。


複数の仮想世界への臨場感(ホメオスターシス)のバランス状態(ゲシュタルト)の結果として、記号的に表現される空間をコンフォートゾーンと呼びます。
心臓の無意識の働きの結果が、脈拍や血圧といった記号的表現で観察・評価できるのと同様の概念です。無意識の機能の結果としてリラックスできコンフォートなる、環境や状況(収入、人脈、業務内容など)の記号的表現で、ゲシュタルトを観察・評価するものです。
この場合のコンフォートとは、自称・コンフォートではなく、筋緊張や発汗など具体的な身体レベルの観察を通じてのコンフォートです。


ゲシュタルトと表裏の関係にある自己イメージの評価軸として、エフィカシー(ゴール達成能力の自己評価)という概念があります。こちらは「ゴール達成」の観点から判断・行動を観察・評価し、それを通じて判断・行動に至る無意識の機能を、さらに無意識の機能を生むに至る仮想世界を観察・評価しようというものです。
オッサンの例で言えば、具体的に歩けるし言い争いもできる、だから心臓は動いているだろうということになります。具体的な個別の判断・行動の事例が観察・評価の対象です。


ところがセルフコーチングの難所の一つですが、観察・評価の視点が機能しないことが少なくないようです。
コンフォートゾーンやエフカシーの視点から観察・評価するのではなく、コンフォートゾーンやエフィカシーについて「言葉で主張」したがる人が少なくないのです。
「『ここがコンフォートゾーンである』と言葉で主張する仮想世界」や「『エフィカシーが高い」と言葉で主張する仮想世界」に臨場感を持つ人が少なくないということです。
一般化して言うと、「無意識の機能を言語化し自称しようとする」傾向があるのです。つまり「自称・心停止」のオッサンと大同小異の有様です。


この傾向はどこから来るのでしょうか。
二元論的な古い心理概念の束縛下にあることが、根本的な原因と思われます。
意識、魂、心などと呼称される「心的(思惟)実体が、自由に判断・行動している」という仮想世界に臨場感を持っているのです。積年の社会的洗脳の結果といえます。
自覚されない無意識の機能でなく、心的実体の実在を前提としているため、言語化し自称しようとするのでしょう。機能評価の視点ではなく、実体としての「自称・コンフォートゾーン」や「自称・エフィカシー」という訳です。
心的実体を前提とする仮想世界を、否定ないし無視することで、行動主義以降の心理学が発展しました。天動説から地動説を経てビックバン宇宙論に至るようにです。
その発展の成果として、認知科学以降の新しいパラダイムで作られたセルフコーチングプログラムがあります。ビックバン宇宙論のようなプログラムを、天動説の如き古いパラダイムで理解しようとしたら、支離滅裂な産物が出現するのです。