感受性さえ豊かだったら、感動できる対象は制限できないと思うんだ | フライとレコーダー

感受性さえ豊かだったら、感動できる対象は制限できないと思うんだ

うわー、また2ヶ月以上とか、どえらい間更新をサボっていましたよ。すんません……


【ゲームは時間を奪う。ゲームで感動は難しい】
各所より。


>「アニメや漫画は感動をもたらすけれど、ゲームは、お金だけ持っていって、子供の時間奪ってますね。その人生にプラスアルファがない。宮崎さんとか他のアニメ見て、人生変わったという人はいると思います。心ふるえるほどの感動とか、ゲームは若干難しい。ビジネスとしてはいいかもしれないが、恨みをもたれる。かつてのエコノミックアニマルのコンテンツ番(引用元原文ママ。たぶん「コンテンツ版」って言いたかったんじゃないか?)みたいにね。敬意も払ってくれない」


いやあの。

なんかゲームにイヤな思い出でもあったんですか?と心配になりかねない勢いで、アニメ漫画とゲームの間で差別しておられますが。

これ読んでて思ったことなんですが、何かに感動するっていうのは「何に感動するか?」が重要というかキモの部分であって「何で感動するか?」なんてのは、別に制限したりランクつけたりするものではないのでは? アニメでも漫画でもゲージツ家先生が大好きな辛気臭い社会性メッセージ満開の映画とかでもいいんですが、そのコンテンツがどういう形態をしているかなんてのは手段でしかないわけで、そこに対して線を引いて「これはよし。これはだめ」をやっても意味がないんじゃないかと。

アニメに、漫画に、実写作品でもいいです。もちろん僕はここにゲームも入れたい。ていうか形態なんて何でもいい。それらのコンテンツにある「何か」に感動するってのは、すなわち「何か」=登場人物の言動だったり美学だったり考え方だったりであって「アニメだから感動した」とか「漫画だから感動した」なんていう媒体や配信の形式じゃないだろうと。逆の言い方をすれば、感動のカケラもないアニメも漫画も実写の芸術作品もゴマンとあるわけで、でもだからといってアニメや漫画やetc、それらを否定するわけでもないでしょう? なんか特定のコンテンツを否定してかかるのって、感動の対象を勝手に狭めているだけで、いいことないような気がします。個人的には感動的なゲームってたくさんありましたよ。
(ここでは「ゲームでは感動できない」ということにフォーカスしてるんで、「別に感動しなきゃいけないってもんじゃないだろう」という議論は横ちょに置いてます)


あと重箱つっつくような話でアレですが……


該当記事の狙うところってのは、「日本のブランド戦略」みたいなところにあるようなんですが、そういったテーマで論じているときに……

「ビジネスとしてはいいかもしれないが、恨みをもたれる。かつてのエコノミックアニマルのコンテンツ番みたいにね。敬意も払ってくれない」

という発言も微妙でね?「番」の誤植は学者先生の問題じゃないからいいとしても。


ブランド戦略で、商品展開とか息の長い収益とかそういうモンを狙っている施策について論じてる人が「ビジネスとしてはいいかもしれないが~」とか「かつてのエコノミックアニマル~みたい」と、カネの面を否定してるのはどうなんだ?と。なんかとても美しい日本を追いかけてるみたいだけど、まずビジネスとして成功してカネを得なきゃダメなんじゃなくて?


あーダラダラ書いてしまった。

要するに、「アニメでも漫画でもゲームでもなんでもいいから、いい作品が増えるといいなー。だから、『アレはよくてコレはダメ』なんて狭量なこと言っちゃイヤン」ということが言いたかったのさ。

本当に感受性が豊かだったら、どんな媒体にでも感動できたり、(仮にそれが反面教師であったとしても)意味を見出せたりできるんでないかい?




で、ひっさしぶりの更新が、人さまの記事に対するツッコミというのも、我ながら微妙というか。ちゃんと自分で考えたことを書こうよ俺。