(7) | 裁き

裁き

ミステリー集


 南邸を後にすると、矢野と武田はあのファミリーレストランに来ていた。壁際の席につくやいなや、矢野は誰かと電話を始めてしまう。武田は暇そうな顔つきで外の景色を眺めながら、矢野の電話が終わるのを待っていた。

 しばらくして、矢野の電話が終わると、武田は開口一番こう言い放った。

「矢野さん、たまには何か頼みましょうよ!」

 武田は、せっかくファミリーレストランへ来たというのに、矢野が水しか頼まないことが不満だったようだ。

「無理言うな。探偵家業ってのは、世間で考えられているほど楽じゃないんだ」

 矢野は軽く武田をたしなめると、まずはグラスの水を勢いよく飲み干す。矢野は一仕事終えた後の開放感からか、顔の表情を緩ませていた。

「でも、いいんですか?」

 武田は、まだ不満そうな顔つきをしている。

「うん?」

 矢野はそれとなく武田の顔色を伺うと、「まああ、そう言うな」、と言って、武田の肩を叩いた。もちろん矢野は武田の言いたいことを分かっていたからだろう。ただその程度で武田が納得するはずはなかった。

「エアバッグは修理されていなかったんでしょ? 七瀬と山下は、事故が起これば社長が死ぬかもしれないと分かっていて、故意に欠陥を放置したんでしょ?」

 武田は矢野に納得のいく説明を求めた。

「もちろん、そうかもしれんが、鳴海自動車はそれを認めんだろ。自分たちの車にだけ修理しようとしてました、とでも言うと思うか?」

 武田は悔しそうに口許をむずむずとさせている。

「でも南が、社長の車を触れなかったのは、山下が邪魔をしたからでしょ? だったら、そこを責めればいいじゃないですか?」

 武田が矢野を責める。一方矢野は、窓の方を向いて、視線を虚空にさまよわせていた。

「そうだな。たぶん、それが山下の計画だったんだろうな。捕まっても、自分だけが罪を被るつもりだったに違いない。七瀬は、あくまでも春信に罪を着せるつもりであれこれと画策していたようだが、山下は七瀬をできるだけ巻き込みたくはなかったんだろう」

「だったら、山下はわざわざ蜘蛛を遣う必要はなかったんじゃないですか?」

「山下には全く説明のつかない確信があったとしか思えん。蜘蛛を遣うことで鳴海に天の裁きが下されるという確信が。蜘蛛から垂らされた糸が、死んだ娘さんの助けだと思った、いやそう思わされた、のかもしれん」

「何かに操られていたとでも言いたいんですか? そんなの理解できるわけありませんよ。ペテンですよ」

 武田は声を荒げる。グラスの水を一気に飲み干すと、勢いよくテーブルに置いた。

「だったら、南はどうなんですか? 署長の息子だか何だかしりませんが、毒蜘蛛を車の中に放置したのはやつでしょ? 毒蜘蛛が原因で鳴海が事故を起こせば、全く関係のない人が巻き込まれたかもしれないことはわかっていたはずです。実際、鳴海の事故でもケガ人が出ているんですから」

 矢野はこう答えた。

「南にしてみても、鳴海が確実に死ぬような手段は取りたくなかったに違いない。要は、何かしらの事故が起きて、鳴海の所業と、七瀬の計画が、世間に露呈すればいいわけだからな。鳴海も七瀬も、社会的に罰せられればそれで良かったわけだ。山下同様、全く説明のつかない確信があったのかもしれん。南には、毒蜘蛛が垂らす糸が、天の裁きを与えるための罠に見えたんだろうな。ただ傍目から見れば、それは結果論に過ぎん。お前が言うとおり、決して許されることではないし、そもそも……」

 矢野が言葉を止めると、武田がこうたたみかけた。

「だったら、どうして南の父親は、自分の息子の悪行を断罪しなかったんですか? やっぱり、何だかんだ言って、保身のためですか?」

 矢野は苦笑しながら、こう武田を宥めた。

「あいつも今では一国一城の主、組織を守るために苦渋の選択を強いられたんだろうな。お前も刑事だったんだ、それぐらいのことはわかるだろ?」

 矢野は武田の顔をまじまじと見る。

「わかりませんね」

 武田はそう答えた。矢野は笑みを浮かべると、武田の肩を軽く叩いた。

「まあ、おれは、お前のそういうとこが好きなんだけどな。いずれにせよ、このままって終わりってこともないだろうから、そんなに膨れるな」

 だが、矢野がどちらかというと南の父親に同情的だと感じたのか、武田は返って憤りを募らせているようだった。

「だいたい、遺体から蜘蛛毒が見つかったんでしょ? いくら署長でも、証拠を隠蔽することはできないでしょ?」

 一方、矢野は、「うん?」、と少々気の抜けた返事をする。あっけらかんとした表情で、「ああ、あれは嘘だ」、と言い出した。

「えっ? 嘘?」

 武田はもちろん驚く。

「だ、だって、毒が、み、みっ、見つかったって——」

 慌てていてうまく言葉になっていない。矢野はそんな武田を笑いながら、こう説明した。

「まあ、それが南の計画だったからな。さも計画がうまくいったように見せた方が、自供を引き出しやすいと思ってな。そもそも鳴海の車で毒蜘蛛を見た人間は誰もおらんそうだ。分かっていて入念に探せば、痕跡ぐらいは出てきたかもしれん。しかし、そうでなければ、たとえ蜘蛛の巣が出てきても、それが毒蜘蛛のものだとは思わんだろ。おれだって、あいつから話を聞くまでは、そんなこと考えもしなかったからな」

 もちろん矢野は武田にそのことを伏せていたことは言うまでもない。

「それにしても、あの芝居は最高だったよ」

 矢野が笑ると、武田は、「芝居じゃありませんよ」、と言って不貞くされた。

「鳴海社長に何があったんでしょうね?」

 武田はそう訊いた。

「さあな、それはおれにもわからん。鳴海社長は、花粉症でかなり困っていたそうだからな。それとなく手を入れたティッシュの箱に毒蜘蛛がいて……。いや、ひょっとすると毒蜘蛛はとっくの昔に逃げ出していたのかもしれんし、今もあの車のどこかにいるのかもしれん。いずれにせよ——」

 矢野はそこで言葉を止めた。

「それが鳴海の運命だったとでも言いたいんですか?」

 武田は、冗談まじりに言う。矢野は、武田の顔をちらっと見てから、こう答えた。

「皮肉なことだが、それが裁きってものなのかもしれん。正直、おれはあまり好きではないがな」