(2) | 裁き

裁き

ミステリー集


 突然、自動車会社の社長が画面に出てくる。社長は、ホテルの前でリポーターたちに囲まれていた。風邪を引いているのか、それとも花粉症なのか、やたらに大きなマスクをしている。春信は、テレビの音量を大きくした。

「鳴海社長、不況による業績不振を理由にして、違法な人員削減をやっているという指摘がありますが、いかがお考えでしょうか?」

 若いリポーターが鳴海にマイクを向ける。リポーターの質問を聞いて、春信は胸のすくような思いがした。

「景気が悪いのは、企業の所為だって言うのかね?」

 鳴海は太々しく言い返した。

「企業も、生き残るために苦渋の選択を強いられたんだ。あんたらもサラリーマンなら、その苦しみがわかるだろ?」

 リポーターは顔色一つ変えずマイクを下げた。すると、それを待っていたかのように、今度は中年のリポーターが鳴海にマイクを向ける。

「鳴海社長、エアバッグの欠陥問題で、販売した車のリコールは行わないそうですが、これについてはどのようにお考えでしょうか?」

 それは、車の安全性評価試験を専門に行う、民間団体の指摘によって明るみに出た。正面衝突試験において、エアバッグが遅れて膨らむという問題が見つかったのだ。ただ噂では、匿名のタレコミが民間団体にあったとも言われていた。世の中、悪いことはできないものだ。春信はそう感じた。

「今の所、エアバッグに問題が出ているとは聞いていながね」

 その発言は社長の傲慢さを示していた。そもそも、そんな事故があったとしても、この社長が公に晒すわけがないことを春信は知っていた。

「だいたい、あの車は私も乗っているんだ。そんな問題のある車に——」

 突然、リポーターの言葉を遮るように、秘書の男が割って入った。

「もう十分でしょ、道を空けて下さい!」

 鳴海と秘書は、リポーターたちに最後まで揉みくちゃにされながら、待ち受けていた黒塗りの車へと乗り込んだ。そこで画面がスタジオへと切り替わる。眼鏡が特徴的な、ニュースキャスターの陣内が映った。陣内は首を大きく傾げると、「みなさん、どう思われますか?」、とだけコメントした。春信は思わず片笑んだ。

「それでは次のニュースに行きましょうか。今日、とんでもない生き物が都会の公園で見つかりました。この生き物、実は——」

 陣内の言葉を遮るように、誰かが玄関の扉を叩いた。春信はテレビの電源を落とし、片手を突きながら立ち上がると、少し頼りげない足取りで玄関へと向かった。

「ちょっと、いいか?」

 扉を開けると、そこにいたのは七瀬だった。根っからの車好きという七瀬は、やぼったい感じの春信とは違って、すっきりとした感じのいい男だ。お互い三十歳は過ぎていたが、未だに二人とも独身だった。

 七瀬は春信が返事をする前に、さっさと部屋の中へと入ってしまい、テレビの横で胡座をかいて座ってしまう。春信は溜息をつきながら玄関の扉を閉めると、重い足取りで部屋に戻った。

「今日は暖かいんだな」

 七瀬はそう言いながらジャケットを脱ぐ。

「最後だから、せめて暖房くらい入れてみようかと思ってな」

 七瀬はきょろときょろと部屋の中を見回していた。

「相変わらず、何にもない部屋だな」

 春信は七瀬と向き合いながら、布団の上で胡座をかいた。

 七瀬は、春信が自動車会社に勤めていた頃の同僚だった。二年前、春信は七瀬と町で偶然再会する。ちょうどその頃、春信は派遣会社を辞めたばかりで、次の職を探していた。七瀬の紹介で今の派遣会社に登録して、七瀬のいる自動車会社の販売店で働くようになった。

「決心、ついたか?」

 七瀬は単刀直入に話を切り出した。しかし春信はまだ決心がついていなかった。泣いても笑ってもあと三日である。このままのらりくらりと避けていれば、何とかなるのではないかという淡い期待も抱いていたのだ。

「テレビ、見たんだろ?」

 七瀬は、あのニュースが流されるのを見て、ここぞとばかりに春信を説得しにやって来たのだ。

「まああな」

 春信はとりあえずそう答えた。

「自分たちが乗っている車だけ修理するなんて、巫山戯ていることだと思うだろ?」

 七瀬は、エアバッグの欠陥問題のことを言っている。そもそもの原因は、エアバッグのセンサーに接続されていたケーブルが、衝突時のショックで外れてしまうという単純なものだった。ただ、修理と言っても大したことはない。ほんの少しだけケーブルの配線を変えるだけでいいのだ。しかし、例え作業自体は単純でも、何万台と販売されたすべての車を修理するとなれば、億単位の費用がかかってしまう。一方、すべての衝突事故でエアバッグが問題を起こすわけではないと考えれば、自動車会社は当然二の足を踏む訳である。いま世の中、何でもかんでも費用対効果がすべてだ。春信はふっと片笑んだ。

「確かに、巫山戯てるさ」

 そして、自動車会社の社長と役員連中は、自分たちが乗る車だけを、密かに修理しようとしていた。それでも法律違反ではないのだ。

「手を貸せよ。別に特別なことを頼んでいるわけじゃないんだ。ただ、お前は何もしなければそれでいいんだからな。楽なもんだろ?」

 たとえ楽でも、七瀬のしようとしていることは明らかに犯罪だった。

「しかしなあ、社長の車は、山下さんの担当だろ? おれみたいな派遣にはいじらせてもらえんよ」

 春信は車の整備工をしていた。皮肉なことだが、自動車会社で培った技能がこれほど役に立つとは考えてもいなかった。

「それなら心配するな。社長が個人的に所有している車と、役員用の車、合わせて十台近い車が来ることになっているんだ。当然、山下、中野、それにお前の三人で作業を担当することになる。もちろん、お前には社長の車が当たるようにうまく割り振っておくからな」

 七瀬は自分の計画に自信があるようだが、そんなことは決してない。七瀬の計画には無理があるのだ。つまり、山下の職人気質の性格からいって、十台の車が来れば、十台とも自分で修理すると言い出すだろう。百歩譲って、作業を任せてもらえたとしても、必ず自分で点検すると言うはずだ。そもそも、そんな山下を知っているからこそ、鳴海社長は山下に自分の車を任せている。だが七瀬は心配するなの一点張りで、春信の意見には耳を貸そうとはしなかった。

「山下さんも仲間に誘ってみたらどうだ? その方が確実だろ?」

 もちろん、山下が七瀬の計画に荷担するはずはない。そんなことは春信にも分かっていた。なぜなら、山下にはそんなことをする理由が何もないからだ。ただ、それ以前に、七瀬は首を縦に振らなかった。

「いや、駄目だ。おやっさんには迷惑をかけたくない」

 山下は、奥さんを病気で亡くし、大事な娘さんも数年前に交通事故で亡くしている。それ以来、山下は七瀬を自分の子供のように可愛がっていた。あの一件でも、山下の尽力があったからこそ、七瀬は自動車会社に残ることができたのだ。恩人である山下を巻き込みたくないという七瀬の気持ちは当然のことだった。

「でもなあ、もし万が一のことがあったらどうするんだ?」
「それこそ自業自得というものだろ?」

 七瀬は嘲笑する。

「だからって、子供じみた悪ふざけをしたところで、何の得にもならないだろ? 下手をすれば、刑務所行きだぞ」

「子供じみた悪ふざけ? 客に売っている車と同じにするだけさ。自分さえ良ければ、他人はどうでもいいみたいな考え方は絶対に許すことはできん! ただそれだけだ。それとも、お前、まさか怖じ気づいたのか? お前だって、あいつには恨みがあるんだろ?」

 確かに、春信には動機があった。しかし、それは七瀬だって同じ事だ。だからと言って、自分が犯罪を犯せば、全く関係のない人が迷惑を被ることだってあるのだ。

「やっぱ、親父さんのことを気にしてるのか?」

 七瀬は、唐突に春信の父親のことを口にする。

 春信は、カーテンの掛かっていない窓に顔を向けた。隣接するマンションの外灯が、誰を照らすわけでもなく、ただぼんやりと輝いている。エレベータホール近くにある電灯は切れかけているらしく、二、三日前から、ぱちぱちと交互に光を点滅させていた。

 春信は部屋の中に視線を戻すと、しばらくの間テレビの方を見ていた。それからついに決心を固めた。

「わかった」

 七瀬は静かに頷く。

「いいな、お前は何もしなくていいんだ。適当に手を動かして、時間を潰していればそれでいい」

 七瀬はゆっくりと立ち上がると、テレビの上に置いてあった虫かごに目をやる。

「お前、虫とか嫌いじゃなかったのか?」

 七瀬は、どこで採ってきたのかと春信に訊く。

「この間、お前と行った公園さ」
 
 あと二、三日もすれば引っ越しをするというのに、どうして虫なんか飼い始めたのかと思うのが普通だろう。しかし七瀬は、そうか、とだけしか返さなかった。