『小説修業』小島信夫、保坂和志 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『小説修業』小島信夫+保坂和志 中公文庫

小説修業 (中公文庫)/中央公論新社
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「小説にとって最もたいせつなことは何か?
小説を敬い、小説に〈奉仕〉する二人の作家が往復書簡をとおして語り合う小説論。過去の偉大な作品から力をもらい、これからの小説について考え、生と死のリアリティ、科学や哲学と文学の関係などをモチーフに手探りしながら進む、純粋な思考の軌跡」裏表紙より





どちらもすごい尊敬しているし、いやなにより好きなので、目にして存在を知ってからすぐに購入しました。僕は忘れっぽいから、そのとき重要とおもったページは端を折り(付箋はめんどくさいのでつかわない)、場合によっては線をひくのだけど、これがキリがなくなってしまって、このままだと全文線を引くことになりかねないと気付いてやめてしまいました。ほんとうにおもしろかった。




往復書簡…だいたい15枚くらいの原稿用紙を手紙みたいに交換しあっているので、邪魔の多いふつうの会話ではぜったいありえない、それぞれ存分の主張と、精読によるほんとの意味での会話のキャッチボールができる、おもしろいしかただとおもう。だから両者の文章の交換でぜんたいは成り立っているのだが、しかしこれが良い感じに噛み合わず、これじたいで小説を読んでるような気分になってくるからおもしろい。小島信夫なんかはここでも、小説とまったく同じ、即興性に満ちた、フィジカルとしか言いようのないあの文章だ。ちがいなんかないのかもしれない。この印象は、保坂和志の「現在進行形」という小島文学の読み方につながっていくとおもう。老小説家・小島信夫の文章と、ほとんど一方的といってもいいような保坂和志の若いそれが交互に重なるわけですが、まえがきもあとがきも保坂さんの手からなるにも関わらず、むしろ保坂和志の文章があるところは小島信夫の引用のような気さえしてくる。まるでげんにいま小島さんが読んでいるものをそのまま載せて、読んでいるような…。それであるのに、ぜんたいとしては明らかに「小島信夫論」となっている。小島先生と呼び、ほとんどファンといってもいいような保坂和志はいわずもがな、小島信夫じしんの物言いもまるっきり他人事みたいだ。小島さんは「覚えてない」とか「忘れた」とかよく言うが、これは自己韜晦なのかほんとの意味なのかはともかく、まるで新しく読んだ小説についてしゃべるみたいに、保坂和志の書くことにいちいち驚いてみせながら、さらに一見なんのかんけいもないような話題を加えつつ、とにかくお返事となる文章を送りつける。つまり、内容としては小島信夫と保坂和志という新旧のきわめて優れた小説家による「小島信夫論」という体裁をとりながら、しかし読んだぜんたいの感触としては、小島信夫の小説そのものような文章の臨場感・肉体感、迫力のためか、鼓動のような、胃腸の消化活動のような、『変身』しかり『城』しかり、カフカ的な「あるがままの悪夢」のような、まさに「現在進行」の気配が、通奏低音的に満ちているのです。



トルストイが「ぜんたい」を表した百年前以来、小説がなにもすすんでいないことを指摘し、ヒントは文学以外にあるとしながら、保坂和志は小説であること、小説家であることのこだわりを見せていて、これはまた小島信夫の『アメリカン・スクール』を読んだときに僕がもっとも考えたことだった。考えただけでなにも出てきてないけど。つまり、僕らの知る「小島信夫」は小説以外ではありえないということ…。(カフカについて保坂和志が、僕が小島信夫について書いたことと似たように書いていて、なんだかうれしかった)。





こうなると、僕ではたとえば田中小実昌の読み方なんかも微妙に変わってくる。僕は田中小実昌の文章を、どこからともなく現れ、滲み出る「おもい」の具現であるとして(「考え」ではない)、そのままほっぽってあるけど、西田哲学の純粋経験とも合わせて(といっても未だに一知半解なのだが)、もしかするとあのひとの書いたものもそれに近かったんではないかと。もう少し田中小実昌のほうが洗練されている(と書くとまた微妙に意味がちがってくるのだが)けど、両者のやっていたことはかなり近いんじゃないだろうか。つまり、ぶつ切りのようなことばを即興的に付け加えていく小島信夫の文章は、一般的な“主”ではなく、世界に接続する〈行為〉で自己を規定することなのではないかな。
(小島信夫がよく「忘れた」とくちにし、しかもほとんどのばあい忘れたままで調べることがないというのは、この小説家の天然の忘れっぽい気質もそれはあるとしても、現実の〈行為〉による自己規定というありかたをおもわせる。これは田中小実昌しかり。彼らはいっつも忘れている。そして忘れたまんまごりごり書いてしまう)。


そして保坂和志の非常に積極的な、小説家として尊敬すべきありかたも、僕には感動だった。こんなふうに悩みに悩んで、考え抜いて、小説家たろうとしている人間がげんにいるというのは、べつに新鮮な事実というわけでは決してないのだが(そういう作家はじっさいにはたくさんいるが、これを読んだ直覚ということ)、まず心強いし、なにしろそういう作家の書く小説論はとにかくおもしろく、またこういったものを読んでからこのひとやその他の小説を読むと、世界が更新されるような実感がする。

最終章で保坂和志は書く。つい百年前まで、僕らは経験にたより、目の前に起こったこと、経験したことを素朴に取り出すだけで小説を書くことができた。しかし科学は宇宙と人体の両方向の無限を示し、その世界認識はやがて経験的想像力を上回ってしまった。想像が世界を規定するのではなく、僕らは宇宙を計算し、遺伝子を読む側にまわってしまった。手にとってすぐわかるのではない未知の原理の存在を知ったさき、文学が「へなへなと萎れない」ためには、「自分」にこだわりすぎるべきではないと。これは進化論が発見されたことで「世界」のかたちが変わり、百年前から小説がすすんでいないという指摘に返っていくものだけど、この着想は僕にはとても新鮮で、おもしろかった。

そしてやはり、小島信夫に対する僕の直感は正しかった。読んでいこうとおもう。


■『アメリカン・スクール』小島信夫
http://ameblo.jp/tsucchini/entry-10088201745.html



「先生(※小島)の小説で問題にされていることは、『自分は何ものであるか』ではなくて、『自分にはここで何ができるのか』『自分のまわりで何が起こっているのか』というようなことで、先生の書いていることは、すべて〈意味〉ではなくて〈行為〉に関わっているのです」保坂和志―P137より