【書籍】日本レスリングの物語 ② | ~‡コキュートス‡~

【書籍】日本レスリングの物語 ②




(ーAー)◎

『日本レスリングの物語』

              柳澤健 著


80年に及ぶ日本レスリングの歴史を、傑作ノンフィクション『1976年のアントニオ猪木』やインタビュー集『1993の女子プロレス』『1985年のクラッシュ・ギャルズ』などのノンフィクション作家の柳澤健が書き上げた力作『日本レスリングの物語』本


1回の記事にまとめて紹介するつもりでしたが、長くなりすぎて投稿出来なかったため、2回に分けてのレビューになっちゃいましたにひひあせる

前回記事①はこちらメモ


(ーAー)はいパー…という事で、続きです合格




■カリスマ的な存在だった八田一朗亡き後、日本レスリング界は様々な問題が噴出し、混迷期を迎えました。


モスクワ・オリンピックには西側諸国、ロサンゼルス・オリンピックには東側諸国が参加しなかった事で、真の世界一決定版とは言えなかったわけですが…

この2度のオリンピックでソ連や東欧諸国と遭遇しなかった事で、日本は世界の水準から大きく遅れてしまったのです。


また、本来ならモスクワで有終の美を飾って現役を退いたであろう高田裕司や富山英明らが、“思い”を残す事でロス五輪にも挑む事となり、代表選手の新陳代謝にも影響を与えてしまいました。

単純に「ベテランの方が強かったんだからしょうがない」という問題じゃないんですね。

伸び盛りの若い選手が日本代表として世界選手権などで闘う事で、世界トップクラスと肌を合わせ、オリンピックを目指してレベルアップに取り組んで行くべきところを、日本国内でもがく状態になってしまい「世界を知る」のが遅れてしまった。



モスクワ以降、世界選手権の結果を見ても、日本の実力低下は明らかでした。


'88年、12年ぶりに米ソが揃ったソウル・オリンピックで、日本は金メダル2個・銀メダル2個と踏みとどまりましたが…

その最大の功労者はフリースタイルの監督を務めた藤本英男(日体大)でした。


藤本は大学レスリング界で最も重要と言われる東日本大学リーグ戦で、日体大を'79年~'96年まで18連覇させるなどした名匠でした。

圧倒的な実績を持ち、選手からも尊敬された藤本でしたが…

日本レスリング協会にとっては、八田一朗に面と向かって異を唱えた事もある“反逆者”でした。

協会の理事たちは、そんな藤本を白眼視し、最強軍団・日体大を率いる藤本は孤立していました…


ソウル翌年、代表監督は平山紘一郎(自衛隊体育学校)に交代したのですが…'92年のバルセロナ・オリンピックに向けた強化合宿等に代表選手を多く抱えていた藤本の日体大は参加しなかった。。。


本番のバルセロナでも、派閥争いの歪みから舞台裏はメチャクチャだったそうです。

計量時間変更を伝える連絡もスムーズに行かず、計量失格になってしまった選手さえいましたドクロダウン


(ーAー)殴り合い寸前だったそうです、舞台裏あせる



バルセロナでは銅メダル1つのみに終わり、実績を考慮して'96年のアトランタ・オリンピックでは再び藤本が監督(強化委員長)に就任しますが…

「現在の体制では強化が十分に出来ない」と協会を批判して半年で辞任してしまいます。


レスリング協会会長だった笹原正三は、選手としては世界での実績こそなかったものの、そのコーチ手腕を買って'69年の全日本王者・下田正二郎を強化委員長に指名…

さらに、かつて富山英明のライバルだったソ連のセルゲイ・ベログラゾフをコーチとして招聘しました。


今ではメジャーなスポーツでも外国人コーチや監督は当たり前のように起用されてますが、当時は画期的な人事であり、この点でもレスリングはパイオニアでした。


しかし、セルゲイの短時間集中・技術指導主体のロシア式の練習は、これまでスタミナ重視でタフな精神力を養う事で結果を残してきた日本のコーチ陣とはソリが合わなかった。

ですが、強化選手たちは根性論でなく細かな技術を教えてくれるセルゲイの指導にワクワクしました。


従来のやり方もロシア式のセルゲイの指導法も、どちらにも長所はあるわけで…強化委員長・下田は両方のやり方を取り入れる折衷案を選択し、アトランタに臨みました。

結局アトランタでは銅メダル1つに終わりますが、手応えを感じていたセルゲイは契約を延長…

'00年のシドニーに向けた強化委員長には、新たに高田裕司が就任します。


しかし、共に世界の頂点を極めた高田とセルゲイのレスリング観は相容れず…

「俺はタカダと喧嘩したくない。いい友達でいたい。これ以上一緒にやったら、世界で会っても口もきかない仲になってしまう…」と日本を離れました……


高田は必死に指導したものの、天才型で高度な反射神経に基づく感覚的なレスリングは、高田以外に真似出来るものではなく、選手たちとの間にセルゲイのような信頼関係を築く事は出来ませんでした。


(ーAー)名選手が必ずしも名コーチではない…


結局、'00年のシドニー五輪はフリースタイルはメダルなし、グレコローマン69㎏級で永田克彦(プロレスラー永田裕志の弟で、後に総合格闘技デビュー)が銀メダルを穫ったのみに終わりました。


'80年のモスクワ不参加以降、日本レスリングは迷走していました……



■そんな迷走していた日本レスリング界を実質的なリーダーとして引っ張って立て直したのが、'99年に専務理事となった福田富昭でした。


'64年の東京オリンピックこそ予選で上武洋次郎に敗れて代表になれなかった福田ですが、翌年のマンチェスター世界選手権で優勝すると現役を引退…

会社に勤めながら時間を作ってレスリングのコーチも行い、事業に失敗しながらも借金を返済し、その後入社した会社の業績を10倍に伸ばしたといいます。

モスクワ・オリンピックのボイコットの件では、政府の圧力に屈したJOC日本オリンピック委員会の弱腰に激怒したという福田は、当時から経営者の目でスポーツを見ていました。


体力、気力、レスリングへの献身、豊富なアイデアと実行力を兼ね備えた福田富昭こそ“第2の八田一朗”でしたひらめき電球アップ


「僕は八田さんの教育を受けた最後の方の人間」と自ら語る福田は、“大胆に発想して、いい事は何でも積極的に取り入れる”指導者で…

ハードワークとメディアを利用したスター作りを行うなど、正に“八田一朗の直系”たるリーダーでした。



今年のロンドン・オリンピックで3つの金メダルを獲得した女子レスリングにしても、遡る事約20年近く前にパリで女子レスリングの存在を知った福田が「日本でも始めるべきだ」と主張して始まったものでした。


協会内に賛同者はいなかったものの、福田は「世界制覇を目指す。俺がやる」と広言し、選手集めから始めたのです。

絶頂期だった全日本女子プロレスに協力を依頼し、練習生やオーディションには落ちたが体力のある者などをアマレスに導いたのです。


'87.10月に開催した初の全日本女子レスリング選手権は、全日本女子プロレスの興行の前座として行い、若手プロレスラーも参加させるなどして注目を集めます。

この時の優勝者には、当時13歳だった山本美憂(山本聖子や山本"KID"徳郁の姉)、後にプロレスの世界でも大成する豊田真奈美(当時16歳)がいました。


(ーAー)ちなみに

既にプロレスラーとしてデビューしていた豊田は、当時はプロの参加は認められなかったために世界選手権などに出れなかったそうですが…

アマレスを続けていれば、世界選手権優勝は間違いないぐらいの素質があったらしいです。

…全女、恐るべしビックリマークあせる



(ーAー)そして

日本の女子レスリングは、本格的に始動してからわずか5年…'89年スイスで行われた第2回世界選手権で、金1個・銀2個・銅3個のメダルを獲得するという結果を出したのです。


そして、福田は協会内部の冷たい視線を浴びながらも、選手の育成環境を整備し、…また、女子レスリングをオリンピックの正式種目にするべく世界に働きかけていったのです。



国内においては、元プロレスラー・アニマル浜口の娘・京子が14歳でレスリングを始めると、福田は積極的に支援しました。

レスリングの専門家を付けての技術的な支援をするだけでなく、父・アニマル浜口を日本レスリング協会の正式なコーチにするという大胆な決断を下します。


(ーAー)えー…

アニマル浜口はリアルな技術も身に付けた“本物のプロレスラー”ではありましたが、元々がボディビル出身であり、アマレス経験はなかったんですね。

「いざと言う時のナイフ」「舐められないためのリアルな技術」であるプロレスにおけるシュート・レスリングと、ルールある競技として争う事が前提にあるアマチュア・レスリングではそもそもの本質が違うわけです。

なので…もちろんプロレスへの偏見も大きかったでしょうけど…「アマレス経験のない元プロレスラーが協会公式のコーチに就任」というのは、批判も少なくなかったわけですね。



福田の狙いは、ズバリ“プロレスラー・アニマル浜口”の名前をメディア向けに利用する事でした。

本当に自分が正式なコーチになってよいものかと逡巡する浜口に、「いいから娘について吠えるんだ。娘だけじゃない、選手全員に向かって、マスコミの前でガーガー吠えろ!」と福田は言ったそうです。


(ーAー)つまり

アニマル浜口が“「気合いだぁ!」の変なおっさん”になったのは、福田富昭のせいですね(笑)


批判を浴びながらもマスコミの注目を集める目論見は成功し、'97.7月のクレルモンフェラン女子世界選手権72㎏級で初優勝した浜口京子をアニマル浜口が肩車した写真は、全てのスポーツ紙の一面を飾ったのです。


見事なまでのマスコミ操縦術。これこそ福田富昭に受け継がれた八田イズムでしたひらめき電球アップ


こうして日本国内で注目を集める一方で、笹原正三に代わってFILAの理事となった福田は、女子レスリングのオリンピック種目採用に尽力し…

反対派との争いに打ち勝ち、2004年のアテネ・オリンピックより正式種目に採用されましたキラキラ



福田富昭の功績は女子レスリングの普及だけではありません。

「日本レスリング界が世界に誇るべきものの1つ」…少年レスリングが裾野を広げる過程で、最大の支援者となったのも、福田富昭でしたひらめき電球


少子化が進み、子供のスポーツ離れが叫ばれる中、少年レスリングだけが拡大を続けています。


現在まで続くレスリングクラブの原型を作ったのは、'69年のグレコローマン全米王者・木口宣昭でした。

…格闘技ファンには、総合格闘技の五味隆典や山本"KID"徳郁の師匠として知られている、あの木口宣昭です。


滞在していたイギリスで、老若の壁なくレスリングを楽しんでいる民間のクラブを見た木口は、'70年に民間のレスリングクラブとして木口道場を開設しました。

当時は大学卒業後にレスリングを続ける環境はなく、そうした卒業生たちが社会人として楽しんで練習し、勝利至上主義ではない社会人大会で腕を競い合うようになります。

そんな社会人たちがやがて子供を連れてくるようになり、少年レスリングの大会も開催されるようになりました。


木口に続くように、学校教育とは離れた民間のクラブで指導する事のやりがいを感じた指導者が増えていき、それと同時に少年少女のレスリングも広がっていったのです。


そんな少年レスリングの普及に際して、ポンと大金を出して支援したのが…福田富昭だった。


現在トップクラスで活躍する女子レスラーの多くは、幼少の頃から大会に出ていた少年レスリング出身者…

福田はこの時点から、「少年のクラブをベースとして日本の女子レスリングを作り上げる」という考えがあったわけですひらめき電球


(ーAー)そして

少年レスリングの普及は、ある意、軍隊的だった大学の部活動をも変えて行く事になります。


つまり…経験豊富な少年レスリング出身者が高校に入学するようになると、高校から始めた先輩よりも実力は上だったりするわけですあせる

それは、先輩後輩の実力による上下関係が変わるという事でした。


明治以来の軍隊文化的な悪しき上下関係が、高校・大学のレスリング部からやがて消えていったのですひらめき電球


(ーAー)まあ…

実際にはそうなるまでの軋轢なんかもあったんじゃないかなぁ?とは思いますけどねドクロあせる



少年レスリングは普及の役には立っても、オリンピックでのメダル獲得などには役立たないと長年考えられてきたそうですが…

'08年の北京オリンピックでは代表の過半数を少年レスリング出身者が占めるようになりました。



■'91年のソ連崩壊は、政治だけでなくレスリング界の勢力分布に多大なる変化をもたらしました。

旧ソ連の共和国がそれぞれ代表を出すようになったからです。

また、韓国、北朝鮮、モンゴル、中国、インドといった国もレスリングに力を注ぐようになり、アジアのレベルは急速に上がりました。


そんな厳しい状況の中、'99年に福田富昭が日本レスリング協会の専務理事となり、日本レスリング界に新しい風が吹き始めます。


惨敗に終わった'00年のシドニー・オリンピックの後、福田は富山英明を強化委員長に指名し、その富山は'96年のアトランタでメダルを期待されながら4位に終わった和田貴広を男子ナショナルチームの専任コーチに任命します。

和田はかつて失意のうちに日本を離れたセルゲイ・ベログラゾフの愛弟子でした。


「チャンピオンがチャンピオンを育てる」という日本レスリングの伝統を覆し、富山はスタイルも考え方も異なり、実績でも大きく劣る和田に全てを任せました。

オリンピックで勝てなかった和田だからこそ、技術や体力だけでない精神力の大切さを理解している、と…。


後方支援に回った富山は、周囲の環境を全部レスリングの味方にしようと動きました。

'01.10月に開所したJISS(国立スポーツ科学センター)のメディカルスタッフや情報分析の人たち、さらには他競技の人たちにもしっかりと挨拶して、味方になってもらいました。



そして代表選手の強化を富山に一任した福田富昭は、'04年のアテネ・オリンピックで正式種目に採用された女子レスリングの話題を次々とマスコミに提供し、世間の耳目を集めて行きました。


レスリング競技において女子が金2個、銀1個、銅1個、男子フリースタイルで銅2個を獲得し、また金16個を含む37個という史上最多のメダルを獲得したアテネ・オリンピックの選手団総監督を務めた福田は、ここぞとばかりに小泉首相(当時)に「ナショナルトレーニングセンターを作って下さい」とアピールし、本当に作らせてしまいました。


冷暖房が完備され、医療面もしっかりし、500名を収容する宿泊施設も完備…

情報に関する専門スタッフもいて、VTRをまとめて技術分析も出来る。

そんなナショナルトレーニングセンターを、文部科学省を介入させず、JOCの下部組織にした福田富昭は「他には誰もできないから」とセンター長に立候補しました。


続く北京オリンピックでは、福田富昭団長率いる日本選手団はアテネほどの好成績は残せなかったものの、レスリングだけは前回を上回る成績を収めました。

女子は前回同様の金2・銀1・銅1、男子は前回を上回る銀1・銅1のメダルを獲得したのです。


そんな好成績の陰に、'93年に強化委員長を辞任して以来、ずっと協会と反目し続けた日体大監督・藤本英男の功績…代表選手を数多く輩出した日体大での鍛錬…があるというのも、なんか心にしみてきますよねキラキラ



(ーAー)y-~~



約370頁に及ぶ本書は、発売後の今年8月に行われるロンドン・オリンピックの代表選手を紹介しつつ、期待を込めて言及していますが…

その部分に関しては、ちょっと普遍性を欠く感じになってしまったので、個人的には「ロンドンの結果を受けて完結させれば良かったんじゃないかな?」と感じます。


まあ…ロンドン・オリンピックの前に読んで下さいという、そんな思惑もあったらしいので、あれなんですが。



(ーAー)y-~~



“スポーツ”は国家を強くするために行われていた“体育”ではなく、「自発的に行う極めて真剣な遊び」ひらめき電球


日本におけるスポーツは「学校」と「体育」の枠組の中に押し込められたままだった。


2011.6月に成立したスポーツ基本法の前文には「スポーツ立国の実現を目指し、国家戦略として、スポーツに関する施策を総合的かつ計画的に推進する」とあるそうです。

柳澤氏は「日本のスポーツは百年をかけて学校体育という枠組から自由になろうとしている」と言います。


学校体育から離れた少年レスリングの普及、その出身者が高校や大学でさらに磨かれ、日本代表としてオリンピックの舞台で闘う…

レスリングのこのピラミッドこそ、スポーツのあるべき姿なのかも知れませんひらめき電球



(ーAー)y-~~



多くの妨害と困難にくじけることなく、日本のレスリングを立ち上げ、世界の頂点にまで引き上げた八田一朗。

日本の女子レスリングを立ち上げ、オリンピックで結果を残したばかりか、日本スポーツ界全体のリーダーとして采配を振るう福田富昭。

そんな偉大な人物を輩出した日本レスリングキラキラ


その歴史を網羅したと言っても過言でないのが、本書『日本レスリングの物語』です♪


レスリングや格闘家に全く興味のない方にはお勧めしませんけど、多少なりとも興味のある方なら実に波乱万丈で面白い“物語”である事を保証しますパー



(ーAー)えー…

どうまとめて良いか分からず、ぶつ切りの抜粋みたいな長々とした2回に渡るレビューになってしまいましたが(苦笑)、多少なりとも本書の内容の素晴らしさが伝わっていたら幸いですあせる

あらあらかしこ。

(ーAー)y-~~ニヤリ










毎度の事ながら、本のレビューは難しいですねとAndroid携帯から投稿。単に書き写してるだけじゃねーかと自問自答。