大信寺は、八尾寺内町の中心を成す浄土真宗の寺院で、八尾御坊とも称されています。

 

 

八尾寺内町を開いた森本行誓(もりもと こうぜい -1619)は、俗名を森本七郎兵衛貞治(もりもと しちろべえさだはる)といい、久宝寺村に生まれました(久宝寺寺内町を参照)。

 

当時、久宝寺村では、顕証寺が一切の支配権を持ち、久宝寺城主安井氏がこの権を委されました(久宝寺御坊顕証寺を参照)。森本氏とその同志らは、かねてから安井氏の支配に反発していました。

 

慶長年間(1596年~1614年)に、京都の本願寺が東西分裂すると、これに伴い、顕証寺が西本願寺に属し、対して、同じく久宝寺寺内町にあった慈願寺は東本願寺に属しました。

 

慶長11年(1606年)11月に、慈願寺を支援する森本氏らが、顕証寺側に立つ安井氏の旧来的な領主的特権に対抗して訴訟を起こしましたが、安井氏が徳川家康の意を得て勝訴すると、森本氏ら17人衆と慈願寺は、久宝寺村から退去を余儀なくされました(慈願寺を参照)。

 

もっとも、徳川家康は、東本願寺派の教如に対し、旧大和川右岸堤の東方に位置する八尾庄の四町四方の地を与え、森本氏ら17人衆と慈願寺は、同地の移住開拓を許可されました。

 

このような経緯を経て、森本氏ら17人衆は、その当時、荒野であった同地に移住して開拓に励み、その翌年の慶長11年(1607年)には、東本願寺下の別院として八尾御坊大信寺を建立し、爾後、移住者らは、大信寺を中心とする八尾寺内町を形成しました。

 

 

大信寺は、建立当初、慈願寺(八尾市本町3丁目)に北隣していましたが、万治3年(1660年)に、現在地(八尾市本町4丁目)に移転拡張されました。

 

 

昭和28年(1953年)3月3日、突如として、本堂の棟が倒壊したので、境内を整備し、新しくコンクリート造りの本堂・鐘楼などを建立しました。

 

 

建物は現代風に様変わりしましたが、視線を落とし足元を見ると、本堂へと続く石畳の情景から、往時の面影を感じ取ることができます。

 

 

解体移築された本堂は、東京都港区の麻布山善福寺に残されています(棚橋利光『八尾の史跡(増補版)」(2017,NPO法人やお文化協会)(19頁))。

 

善福寺には、慶應義塾大学の創始者である福澤諭吉のお墓があります。