人は、生きる上で自由と平等を欲するものである。しかし、自由と平等というものが、この世の中で同時に得られることがありうるのでしょうか?


資本主義社会は基本的には、自由主義社会であると思います。そして、共産主義社会は基本的に、平等を目指した社会であると思います。それぞれの社会は、人が苦悶し、どうしたら人間らしい生き方・生活になるのか、を追求した結果、文明国家に発生した社会様式なのだと推察します。


その追求の結果、資本主義社会では、自由は法律の範囲内では得られたかもしれませんが、貧富の格差を引き起こしました。つまり、同じ人に生まれながら、才能や努力のない人は社会の底辺に這いつくばり、場合によっては偏見の目で差別されたりします。これは、平等という観点に立つと、決して平等とは言えない姿に映るかと思います。


社会主義社会では、どうかと言うと、平等を追求するあまり、自由を制限しなければいけないシステムになってしまい、人としての本能を削ぎ落とす結果となりました。いくら努力して働いても給料は同じ、という中で、意欲がなくなる状態になりました。しかも、歴史からすると、ある一部の特権階級だけが潤うという歪んだ形で行われているだけに、一般庶民からすれば、不満の残るシステムと言えます。


代表的な社会システムを挙げましたが、どうも自由と平等を同時に獲得する生活は難しいと言えそうです。


人は、生きていく中で、自由と平等を求めます。しかし、真実から言うと、自由を求めれば、平等は失われ、平等を求めれば、自由が奪われます。世間では、「自由で平等な社会」を喧伝し、あたかも同時に両方を享受しているかのように認識されがちですが、実は、どちらかしか得られないのが真実です。


会社で、ある業務に対して、自分の意見を通したいので自由にさせてくれ、と打診した場合に、会社の方針として、それは認められないという場合があります。会社の秩序を守るためには、一人の自由が制限されるわけで、なかなか自由を得られないのが現実です。会社の方針は、皆平等に守っている訳ですから、平等の前に自由は阻まれたという格好になります。もし、この社員がそれでも自分の意見を通してくれ、と強く要望し、仮りに会社が呑んでしまうと、他の社員からすれば、なぜあいつだけ優遇されるのか、と平等の破壊に不満が続出する結果になります。この例を見るように、自由と平等は一見、同時に獲得できそうに見えるものの、実際は同時には得られないのが真実なのです。


人は、生きていく中で様々な制限を受けて生活しています。つまり、自由は容易には得られないものである、との認識が必要なのです。また、人は生きていく中で、確実に平等を阻害されながら生きています。平等とは、ある種、仮想の世界であり、差別を受けてしまうのが当たり前、との認識が実は必要なのです。


勝手な妄想や理想によって、現実を美化したがるのが人間ですが、その美化するが故に苦しみを己に返しているのが、愚かな我々人間であることを、よく理解しておく必要があると思います。自由がない、平等ではない、と日々愚痴をこぼしている人が大半ですが、所詮、人間社会で自由と平等を求めること自体が無理であり、その認識がしっかりあれば、理想と現実のギャップに苦しまない生き方になるのではないかと思われます。


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