人とは、どういうものでしょうか。物事をミスなく完全に遂行する能力を、常に持っている存在でしょうか。人間は、不完全な存在です。どんなに偉大だ、と言われた人でも過去に必ず失敗を犯してきています。人が生きる、という事は、「失敗」を重ねていく、という事だと思います。何から何まで、完璧にこなし、「失敗」をしない人が、もしいたならば、その人は人間でないか、大嘘つきか、のどちらかでしょう。


人は、失敗した時に、すぐに言い訳を言うか、他人のせいにするか、をする事で、自分のせいである事を回避しようとします。意識的にする場合と無意識にする場合とがありますが、いずれにせよ、人間の醜悪の極みの部分・一面と言えると思います。相手の人からすれば、その人の醜態たる態度は、嫌らしくしか映らないのにもかかわらず、その張本人は当たり前のように、言い訳や他人のせい、を主張します。


なぜ、人は、明らかに自分の失敗であるにもかかわらず、自分の失敗を認められないのでしょうか?幼稚園・小学生時分は、恐らく、大人である今よりは、失敗に対して真摯に向き合い、素直に、「ごめんなさい」ができたのではないかと思います。ところが、大人になるにつれて、失敗したら自分の責任と認め謝る、という、当たり前の事が容易にできなくなっているのです。様々な要因は考えられますが、自分の失敗と認めるのが、「恥ずかしい」、「怖い」、「苦しい」、「嫌だ」、「プライドが許さない」、「評価が落ちる」などが挙げられると思います。


他人のせいにし、自分のせいと認めなかった場合は、一瞬、自分の責任を回避できたので、楽な気持ちになれたと思いますが、実は、これは錯覚です。実は、自分の責任を他人に転嫁する事で、自分の心の中に記憶として残り、何かのきっかけで、他人のせいにしてしまったその記憶が再び現れたりして、自分を苦しめ、一生引きずったりします。自分のせいなのに、他人のせいにした行為は、当然、不条理な行為です。ですから、その不条理を自分の記憶として、残す事は、自分の中で解決された事にはならず、未消化状態にある、と言ってもいいかもしれません。


他人のせいにして、人生を歩んできた方は、頭の中が結構モヤモヤしていて、大事な問題に直面した時に、しっかりした判断ができない人なのではないかと思います。これは、何事も他人のせいにしてきた為に、物事の善悪が分からなくなってきていて、判断一つにも対応できない、のだと思います。一つ一つの問題に責任をとってこなかった、という人生の蓄積から、判断できない、とも言えるでしょう。


他人のせいにする事で、もし一生苦しむのであるなら、これは大変なことです。それでは、どうしたらいいのでしょうか?答えは簡単です。自分のせい、にすればいいのです。つまり、何か失敗したり、自分に災難が降り懸かってきた時は、自分の至らなかったせいで、こういう結果が自分に起きた、と受け止め、受け入れればよい、という事です。人というものは、不思議なもので、積極的に自分の失敗を認め、受け入れる、と、後に残る事はなく、スッキリするものなのです。(スッキリとは解決している、という事です)「な~んだ、私が悪かったのか。それでは仕方ないよね。自分が馬鹿だったんだから。自分に怒ってもしょうがない。」という感じになります。表面上、失敗を認めつつ、内心、あいつの責任も少しはあるよな、と思っていたなら、スッキリすることはありません。全面的に責任を認めることが、重要なのです。


人間というものは、存在しているだけで、周りに影響を与えていて、時に悪い影響も与えています。本人が、悪い影響を与えようとしていなくても、相手がどう捉えるかは相手に判断が委ねられているので、時に相手を怒らせる場合があります。この場合、相手が勝手に怒ったと捉えるのか、私が気に障るふるまいをしてしまったと捉えるのか、の二つが考えられますが、自分の責任と捉えるのが正しい、わけですから、後者の私が気に障るふるまいをしてしまった、になるわけです。


絶対に、私は悪くない、と思っても、まずは自分に落ち度はなかったか、をしっかり検証して下さい。1%でも落ち度があれば、それは自分のせいにすべきことです。もし、相手にも落ち度があれば、自分の落ち度の反省の弁を述べつつ、指摘してあげればいい事です。他人のせいにする前に、自分のせいではないのか、の謙虚な姿勢が必要であり、これが真実の生き方というものなのです。


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