日本語で書かれた優れた詩、とりわけ古い短歌や俳句を読むとき、僕はほんとうに日本人に生まれてよかったと思う。日本語を母国語に持った者でなければ、日本語の響きの美しさというのは理解できないような気がするからだ。


 同じような意味で、夏目漱石の「猫」や「坊っちゃん」を日本語で読めることも、とても幸福なことだと思っている。


 そして、そういった意趣とは全く違った意味合いで、日本人に生まれて良かったと思わせる小説がある。


 筒井康隆が断筆宣言をする前に書いた長編小説、「残像に口紅を」である。


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 筒井康隆は日本におけるメタ文学の権威のような存在で、「虚構船団」や「朝のガスパール」など、その分野で数々の名作を生み出している。「残像に口紅を」は、その中でも最もスリリングで過激な実験を成し遂げた作品だと僕は思う。


 「残像に口紅を」で筒井康隆が試みた過激な実験――それは、小説を紡ぎ出す「ことば自体」を消滅させていくというものだった。


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 つまり、たとえば第1章では世界から「あ」という言葉が失われる。小説世界に、一切「あ」という音の入った言葉は使われない。「愛」も「あなた」も、「である」という言葉も、すべて使えない。登場人物の会話はもちろんのこと、地の文章にもだ。


 そして第2章では「ぱ」が消え、第3章では「せ」が消える、といったふうに、順番に50音が消滅して行く。


 言葉が消滅すると、その言葉の表していたものも消える。たとえば「こ」が消えたら「コーヒー」が消えるし、「ぬ」が消えたら犬が消える。消えるのは食べ物や動物だけではない。人だって消える。「ふ」がなくなったら、「文子」が消える。


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 主人公は小説家の佐治という人物。彼は物語の登場人物の一人であると同時に、この文学的実験の首謀者でもある。彼は世界から順番に文字が消滅することを知っている。知ってはいるが、どの言葉から先に消えるかは分からないし、消えてしまった文字や、その文字を含む言葉は思い出すことができない。


 たとえば前の章の終わりで食べていた食べ物や、会話していた人物が次の章が始まった途端、消滅してしまうといったドタバタも起こるわけだけれど、何が消えたのか、登場人物たちにはわからないのである。


 ただ、消えたばかりの言葉に対しては、「残像」のように、さみしい追憶のみ残る。何かが消えたことは確かなのだけれど、それがなんだったのかは思い出せない。……


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 言葉が減って行くに従って変化する小説の文体も見どころだろう。はじめは折り目正しく平明な文章だったのが、次第に難解な用語が増える。体言止めや特殊な表現が現れる。


 残りの音が20を切る頃になるとまともに文章を書くのも難しいところなのだが、そこは小説の名人・筒井康隆の芸の見せ所。巧みに笑いをとりまぜながら難なく切り抜ける。かえって不思議に前衛詩みたいな味のある文章が出てくるのが面白い。


 たとえば第50章(残り19音)の冒頭はこんな感じだ。


 勝夫の手が板を叩いた。板が言った。「入れ、入れ」誰かがいたっていいか。勝夫の、誰かに仮定の言い逃れの算段。板囲いを伝いつつの低回。「誰か」だって。いないいない。

 いいさ。勝手に入れ入れ。敢行だ。ついに勝夫が犯意を抱いた。だが、さてさて、囲いのこの高さ。打開の手立ては。耽耽。勝夫の偵察。


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 言葉が減るに従ってドタバタの度を増していくおかしさがたまらなくスリリングで、読者の興味はここに集中せざるを得ないのだけれど、全編を通して一貫して主人公が感じ続けているのは、言葉が失われていくことへの寂しさである。


 小説の冒頭部、主人公と今回の実験について打ち合わせをする編集者に、次のような科白がある。


 「(略)ひとつのことばが失われた時、そのことばがいかに大切なものだったかがわかる。そして当然のことだが、ことばが失われた時にはそのことばが示していたものも世界から消える。そこではじめて、それが君にとっていかに大切なものだったかということが」


 この小説では、結局のところ、小説家・筒井康隆のことばに対する愛情が表現されているんじゃないかと思う。この小説を書いてから数年後、筒井氏は表現の自由を差別の名のもとに奪われたことに対し、3年間の「断筆」というかたちで抗議した。


 一介の読書好き、そして日本語好きな者の一人として、このような気骨のある「文士」がまだ日本に存在するということは、とても心強い。