サマリア | 映画まみれR

サマリア

『サマリア』 (‘04/韓国)
監督: キム・ギドク


SAMARIA



とても安っぽい言い方になってしまうけど、すばらしい映画だった。

人間の根源的な罪を描いた作品ではあるが、なぜか鑑賞後は切ないけれど温かい気持ちにさせてくれる。キム・ギドクの作品は、残酷な描写の裏にある人間が持ち合わせる内面の醜さと罪深さの描き方が観念的で、観客によって様々な解釈が出来る映画が多いように感じる。発表する作品が常に賛否両論となるのはまさにこういった作風によるものだろう。


そんな彼の作品にあって、この『サマリア』はわりと直接的な描かれ方をしていてある意味わかりやすい。わかりやすいがためにこれも色々な捉え方ができる作品だと思う。ただ、何を言わんとしているのかどうかは観客の受け止め方次第だ。映画はそもそも製作され公開された時点で観客にすべてを委ねられているものだと信じているから。100人見れば100通りの解釈があっていいんじゃないか。逆にそういった映画のほうがおもしろい。



女子高生のヨジンは刑事をしている父ヨンギと2人暮らし。親友のチェヨンとヨジンは2人でヨーロッパ旅行に行くため、手っ取り早く金を稼ぐ目的から 援助交際をするようになっていた。何の罪の意識もなく男に身体を売るチェヨンを嫌々ながらもそばで見守り続け稼いだ金を管理しているヨジン。そんな時、ホテルに警官の取締りが入り、それを逃れようとしたチェヨンはホテルの窓から飛び降り命を絶ってしまう。チェヨンの死に大きく失望したヨジンは、彼女への罪滅ぼしのためにあることを思いつく。


SAMARIA



この作品は3つの章により構成されていて、それぞれの章には「バスミルダ」、「サマリア」、「ソナタ」というタイトルが付けられている。


この『サマリア』、コピーなどから想像すると女子高生の援助交際の実態を赤裸々に綴る、という話と思っていたがそんなありきたりなストーリーではなかった。今となってはひとつの文化のようにもなってしまった「援助交際」という甘ったるい言い方をされるこの行為は、当たり前だが単なる売春行為であり、そこには双方に罪が存在している。この作品は、罪を背負った少女がとった行動、そして、その娘の罪を一手に引き受け、新たな道に歩ませようとする父親、その親子の話である。



「バスミルダ」と「サマリア」の2章で彼女達の行為とそこにある少女ならではの友情とそして死、絶望と罪滅ぼしが描かれる。親友が命を絶ってしまったのは、自分のせいだと、彼女に対しての贖罪のために彼女が客として会ってきた男たちに体をゆだね、稼いだ金を一人ずつ返していくヨジン。そうして罪滅ぼしという名目で、少しずつ自分が気づかずうちに罪を背負っていくヨジン。体を売ることになんの罪の意識を持たない彼女がなんとも皮肉に描かれる。

彼女の中には、それが考え付く唯一の罪滅ぼしの方法だったのだろう。あまりにも幼い子供の考えだ。罪滅ぼしとはいえ、自らの体で罪を清算していくという考え。体の汚れは洗えば落ちる、だが一人ひとり男に抱かれるたび、彼女は魂を削っているのだ。


そんな光景を目撃してしまった父親の苦悩はやはり計り知れない。手塩に掛けて、男手一人で育ててきた娘が、誰とも知らない男たちに体を預けている。
だが、父親は彼女がどういう目的で、体を張っているのかを知らない。知ったところでなにが変わるということはないかもしれないが、話し合うことすらしない。ただ、影でその様を見守り続け、男たちにその罪の大きさを力でわからせようとするだけだ。彼のやり方とても冷酷だ。相手に対して一切の赦しを与えず彼なりの方法で罰を与える。自宅に押し入り、自分の娘よりも年下の娘の体を弄んだ男に家族全員が見守る中で、罪の大きさを思い知れといわんばかりに罵り彼を殴る。


SAMARIA



最終章「ソナタ」では前2章を紡ぐ形で、罪を背負ったままの娘と、彼女の罪を自ら背負い新たに歩かせようとする父との、罪の購いの旅が描かれる。

彼女に対して、してきた行いに対して一切問い詰めることなどしない。
ただ、やさしい視線で見つめるだけだ。娘は、父親に殺される夢を見る。口には出さずとも、彼女も自分が犯した罪の大きさを感じ、苦悩し続けている。お互い口には出さずとも、お互いが背負った罪と対峙するかのような旅。
旅の途中、車の運転を河原でやさしく教える父親。最初は付いていく彼だが、ここから先は一人で行くように告げる。自分はもう見守ってやれない。これからは自分の足で道を切り開き生きていきなさい、という父の言葉にこめられたメッセージ。


この作品は、「援助交際」という題材を用いてはいるが紛れもなく親子の愛を描いた作品だろう。この父親の男たちへの行動は、彼女の罪をすべて自分が被るというためにあえて徹底的に残忍で冷酷だ。その裏には、娘への愛だけがあるのだろう。その父の愛を果たして彼女は受け止め、理解することが出来たのだろうか。


とても不思議だが、なぜか心に残るこの『サマリア』というタイトルには敬虔なクリスチャンであるキム・ギドクらしい宗教的な意味合いが込められている。
「サマリア」とは新約聖書ヨハネ第四章に登場する、名もなきサマリア人の女性のことだそうだ。
罪の意識のために隠れるように生きてきたが、イエスと出会い罪を意識することで生まれ変わったように信心深く生きた人物とのこと。

この映画で描かれる主人公ヨジンそのものだと感じる。自分の罪を多くを語らない父親によって意識し始めた彼女。彼女はこれから車の運転を覚えるように、改めて一から自らの人生の舵を取ろうとする。
『サマリア』はこの親子の愛をモチーフに罪から生まれる絶望と孤独、そして再生が描かれた作品だ。
キム・ギドクの作品の中ではある種異質であるだろうが、彼の作品の中では特に好きな一本になった。