マンダレイ
『マンダレイ』 (‘05/デンマーク・スウェーデン・オランダ・フランス・ドイツ・アメリカ)
監督: ラース・フォン・トリアー
前作『ドッグヴィル』から2年が経ち、ようやく発表されたラース・フォン・トリアーによる続編『マンダレイ』。
「アメリカ3部作」と呼ばれる一連の作品の2作目にあたる。
舞台は前作を踏襲した形で、やはり殺風景なセットに白線を引いただけの、ストーリーをより際立たせるものとなっている。
主演のグレースを演じるのは前作のニコール・キッドマンに代わり、ブライス・ダラス・ハワード。
やはり、二コールに比べるといささか頼りなげで、地味というか。そんなキャスティング。
ドッグヴィルを立ち去り新たな地を求めていたグレースと父親とギャングたちが辿り着いたのが、
アメリカ南部アラバマ州にある小さな農園マンダレイ。
この地は、70年も昔に廃止された黒人奴隷制度が今も色濃く残っている場所だ。
そう、今回トリアーがテーマとしたのは、アメリカができれば蓋をしておきたいこの奴隷制度、
そしてなにより昔から変わらない今のアメリカ自体を表した作品となっている。
マンダレイの状況を見て、グレースはアメリカ的な使命感を感じ改革を進めていく。
奴隷制度の廃止、そして黒人たちの「自由」という名の解放を行うために、
理想的な民主主義という名の価値観を、武力を行使し推し進めようとする。
誰も頼んではいないことに、「無責任」に首を突っ込み、勝手に改革を進めていくのは正にアメリカだ。
必ずしも差し伸べたその行為は彼らのためではないだろう。
グレースに対して、彼女の父が言う言葉は象徴的だ。
「かごに入れられた鳥を自由がなくて不憫だと逃がしてあげる。だが、鳥はそれを望んでいるのか。
自由の意味すら知らずに生きてきた鳥は、どうすることもできずに結果死んでしまう。」
奴隷を作ったのは紛れもない白人だ。黒人を自分たちの地に「自分たちの都合」で無責任に連れてきて、
今度も自分たちの都合でその制度を廃止した。
かごから開放されたマンダレイの黒人たちは、染み付いた奴隷としてのルールなくてはすでに
生活をすることすらできない状況だ。というよりも、自由の意味を知らない人間にとって
目の前に「これが自由です」と差し出されたものが必ずしも彼らにとっての「自由」ではない。
良かれと思って行った行為だが、彼らにとってすれば言うなれば「大きなお世話」なのである。
彼らは彼らなりに、従順に奴隷として生活し、少しの幸せを持ち続け生活していた。
最終的に、マンダレイの住人たちは自分を見失い、元の生活に戻ることを望んでいく。
肌の色が違うだけで同じ人間。グレースが行おうとしていたことなど黒人たちはとっくに理解していたんだ。
そもそもグレースの行動からは、黒人に対する蔑視そして偽善的な哀れみに塗れたものだと感じる。
結果として、「権力」という名の武力の力がなくなることで身の危険を感じ、もう用がないと判断すればそそくさとその地を無責任に後にする。
このグレースの行動は昔からなにも変わらない今のアメリカを体現しているともみれる。
鑑賞後は正直『ドッグヴィル』ほど不快な後味の悪さ、というものは感じなかった。
それはおそらく、『ドッグヴィル』がアメリカそして僕ら人間の醜悪さと誰もが持っている残酷な面を
徹底的に見せ付けたのに対し、今回のこの『マンダレイ』はより直接的に「アメリカ」を意識した
作品だったと感じられたからだろうか。それとも、前作での免疫が多少なりともあるからかもしれないが。
エンドロールで流れるのは前作同様デヴィッド・ボウイの『ヤング・アメリカン』。
軽快なこの曲をバックに映し出されるのは、今まで行ってきたことへの哀れな結果を残酷に見せ付ける。
過去何度も語りつくされた、決して今後もなくなることはないであろうこの余りにも根が深い奴隷制度という問題。
人間が作り出した、人間を人間と思わないこの問題に対しての罪の大きさを、殴られるような痛みと共に感じさせる作品だった。
ただ、一大決心をしたんだろうけど、ハワードのフルヌードの必要性がよくわからなかった。
別にあそこまでならなくてもよかったんじゃないか。
3作目は『WASINGTON』という作品のようだ。アメリカの首都名がついたこの最終章。
いよいよ本丸に到達したトリアーは、いったいどんな結末を用意してくるのだろうか。