70年目の「歴史検証」1〜撃墜されたB29・上〜 | トレインタイムス~Traintimes blog~

70年目の「歴史検証」1〜撃墜されたB29・上〜

以前弊ブログ

(2012年11月25日)

「撃墜されたB29」

の記事を書きまして

改めて資料や証言を掻き集めて

自身で納得出来るものを残そうと

決意

だけはしたものの

これがなかなか難儀でありまして


ようやく幾つかの団体・個人の

公文書を裏付けとしたものと

実際に飛行機が墜落した状態ってどんなのよ

と言う根本的な疑問の解決が

まぁなかなか出来ませんで

戦争終結70年忌に寄せて

稚拙ですが小生なりの供養として

改めてまとめた次第でございます


先ず・・・・・

ボーイング式B29型爆撃機

「スーパーフォートレス」

についておさらいしておきましょう


アメリカ合衆国陸軍戦略航空軍

長距離+高高度爆撃機

昭和17(1942)年9月21日に初飛行

昭和19(1944)年5月8日に運用開始

日本本土への飛行は昭和19年11月1日

正確にはB29型ではなく

B29の偵察機型F13ではありますが

機体番号42-93852

第73爆撃航空団所属「トウキョウローズ」

が偵察飛行を行い

ここからB29が日本の空を覆うようになる

・・・・


B29

と言えば

米軍が空襲で使った主要な機材

なのですが

B29が飛ぶ前から日本本土空襲はございました

「空襲=B29」

では決してございません


全長30.2m/全幅43.1m/全高8.5m

翼面積151平方m

自重32.4t/出撃時62.0t/離陸64.0t

発動機ライトR3350-23形式4発(2200馬力☓4)

最高速度時速576キロ

巡航速度時速350キロ

航続距離6600キロ(爆弾7,250kg搭載として)

実用上昇限度9720m

製造数3970機


武装は12.7ミリM2機関銃12門と20ミリ1門

乗員は10名としていたものの

この記事で撃墜されたものは11名の搭乗


戦後も運用され続け

英国軍でも使われたB29は

昭和35(1960)年6月21日に引退しておりまして

対日戦争の他に朝鮮戦争などでも使われています


まさに空飛ぶ要塞ですが

延べ出撃回数3万3千回に対して

714機が喪失しており

3,041名が戦死と認定されております

(対日戦争中)


撃墜されたものは米軍側資料では414機

その多くは日本軍高射砲によるものですが

迎撃飛行機によるものも少なくはありません


大東亜戦争

太平洋戦争

などと呼ばれる先の大戦ですが

それから70年を経て

現在3機のB29が保存されております


一つは飛行可能(動態保存)ですが


機体番号44-86292「エノラゲイ」

機体番号44-27297「ボックスカー」

広島と長崎に本当の地獄を作り出した

「悪魔」

を運んだ二つの機体

個人的には永遠に保存して頂きたいもの

米国が勝利を得た

ものなどではなく

人が悪魔になることの証拠品・遺産として

←流鉄


千葉県流山市流山二丁目「閻魔堂」

北総新選組こと

鉄道輸送警備隊第三業務隊流山派遣隊

新選組本陣跡(流山鴻池)などの

史跡案内・運営を開始して十年を超え

十七万人を超える御客様をご案内して参りました

その中で痛切に感じますのは

戦後七十年

は案外「近い」歴史で

「その目撃者」が

根郷にも多くいらっしゃいますし

御来訪の御客様からも複数伺っております

戦争と言う特殊な経験の中で

B29の撃墜を鮮明に記憶されている方が多いのは

どれだけ衝撃的な出来事だったのか

それが複数の証言に共通した

小生の印象でして


そもそもB29なんてデカい重爆撃機

墜落する

なんてぇ事自体が相当に凄い事で

それを見たとなりますれば

そりゃ記憶に深く刻まれる事でしょう


B29による空襲をあちらこちらと調べている中で

幾つかの「変化」に気づきました

対日作戦時14万7千トンの爆弾類を落とし

数百万人を殺戮した

その合計数では見えなかったもの・・・


変化の第一は「指揮官の交代」

昭和20年01月20日

米陸軍航空軍第20空軍第21爆撃集団司令官

ヘイウッド・シェファード・ハンセル・ジュニア准将

から

カーチス・エマーソン・ルメイ少将

に交代して

それ以前から検討されていた日本本土の

焼夷弾の無差別爆撃による焦土作戦

を推進してゆくのです


変化の第二は「高度」

昭和20年03月10日東京大空襲から

ルメイ少将は作戦高度を

それまでの

昼間に8500~9500メートル

から

夜間に1500~3000メートル

へ変更した

それまで米軍は

「と言ったって首都だぜ、防空システムあるだろよ」

と警戒していたものだったそうだが

レーダーや迎撃戦闘機部隊はおろか

対空砲火すら満足ではなかった

そんなボロボロの日本軍内情に気付いた


高高度から爆弾を落とせば爆撃機は安全だが

いかんせん目標を外れ易い訳で

弾幕にもならない高射砲とわずかな迎撃機なら

B29装備の20ミリ機関砲でしのげる

と踏んだのでしょう


変化の第三は「基地」

日本本土空襲は昭和17年04月18日に

米陸軍航空軍ジェームス・ハロルド・ドーリットル中佐

が指揮する第17爆撃隊の中型爆撃機

ノースアメリカン式B25「ミッチェル」

16機による「片道爆撃」を皮切りに

爆撃機や戦闘機による攻撃を始めるのですが

焦土作戦の本格化はマリアナ諸島奪取後からで

特に昭和20年04月07日以降

硫黄島

に支援基地と援護戦闘機部隊が設けられ

日本の多くの都市と多くの庶民が

文字通り焼き尽くされるのです
(安房守義将/常在戦場より転載)