当然TBSは「せっかく青春ドラマが久々に当たったのに何で今頃水戸黄門!?」と大反対するが、
磯崎洋三職員から復帰を要請されて「SHは恋のイニシャル」をヒットさせて、尚且つスポンサーだった
逸見稔さんに押し切られて「ただの水戸黄門じゃない、森繁さんをナショナル劇場に戻して七人の孫の時代劇版を作る」
という意図で「水戸黄門」に制作が決定。

ただし、東京でTBSのディレクターに撮らせて大失敗した「戦国太平記 真田幸村」の教訓を生かし、
TBSの目の届かない京都に撮影所がある上に、時代劇製作のノウハウを最も持っていた東映で
水戸黄門を撮る事を決めて、東映社長の岡田茂氏に打診。これで京都での制作ルートが出来た。
こうしてTBS放送のドラマながら、制作にCAL、制作協力に東映とクレジットされてOPに「TBS」の
クレジットがない前代未聞の作品がスタートする。

途中、東宝の看板役者森繁の起用断念等のトラブルもあったが、放送開始してみると最終回は20%超の大ヒット。
こうしていよいよTBSと逸見さんの主導権争いは決着した。
元TBS編成企画部:田原茂行氏曰く
『水戸黄門』は、松下電器の担当者と電通が松下幸之助の好みを意識してもちこんだとみられる
問答無用の企画であったが、この番組の成功は、やがてこの時間枠の企画決定の主導権争いに
終止符をうつウルトラCとなり、われわれの入れない領域が生まれる結果になった』

 

逸見さんも「真田幸村」でTBSサイドと揉めて失敗に終わった事も
あってTBSの目が届く東京での撮影は回避したくなり、京都での撮影にこだわった。
そこで時代劇のメッカだった東映の岡田社長を訪ねて東映京都で番組を制作できる環境を整えた。

結果黄門の成功で逸見さんも東映に絶大的な信頼を寄せるようになり、

1976年(7部の頃)に赤字だった東映京都を解散する話が出来て
水戸黄門も東京で制作するという話が出た時には「どうしても京都でやりたい、
新しい会社を立ち上げてくれ」と岡田社長に頼み込んで、組織をスリムにした
東映太秦映像を立ち上げて貰い京都での制作を続行させた。