謙虚の章で、前回と同じく、科挙に合格した人間の共通点を上げています。
丁丑の歳、私は首都にいた。
その時、馮開之と一緒に居て、その様子を観察していたが、
馮開之は、昔と違って、己を謙虚(虚しくし)にし、容貌態度も、すっかり落ち着いて礼に修まっていた。
大いに、その幼年の頃の悪習を改善しているのを見た。
※馮開之は、万暦会試のトップで合格している。
現代ではこの「不良が更生した」という話には、クレームがつくことが多く、国民性が武勇伝を語ることがステータスだった民度の低い時代から、日本の民度が向上したことが伺えます。
まあ、実際には、昔も、不良は社会の底辺を歩むことが圧倒的に多いのですが、まれに、その行動力で、凡人の枠を突破することが多く、起業や芸能界で出世することがたまにあります。
ヤンキー文化が一般的だった時代では、彼らはヒーローでした。
ただ、今は、日本の民度(生活レベル)も上がってきて、不良のステータス価値が下がってきました。
ネット時代になって、元不良じゃない真面目な人間の発言数が増えてきたことも原因でしょう。
「なぜ、さんざん迷惑をかけた不良が?」
という、まっとうに学生時代を歩んできた人たちの、元不良に対するヘイトスピーチが、増大してきました。
ただし、日本経済が、沈下するに当たって、再び中流階級が没落することは既に実現済みなので、それに従って、今後、民度も当然落下していきます。
大衆のヒーロー象として、再びヤンキー文化が流行するということは考えられるでしょう。
そう考えると、そもそも論として、不良(別に不良に限らず)は別に彼ら自身の責任ではなくて、先天的な環境によるものだと言えます。
元々、フェミニズム社会学には、ヤンキー早婚の法則という、ネタなのかマジなのかよくわからない法則が、大真面目に教科書に載っています。
要するに、底辺の環境で育った娘は、両親の不和や民度の低い態度を見ているので、早めに家を出ます。
しかし、家族の愛に飢えているので、同じようなヤンキーと早めに結婚して子供を産みます。
そして、悲しいことに、その子供も、やはり親が底辺なので同じような再生産がループされます。
これが、以前申し上げた、シャケの一生と比較してみれば、人類という種が所詮、シャケと変わらないことがわかります。
もっと言えば、霊長の最高峰たる高等生物の人間ですらこの有様です。
いかに、世の中が、デフォルトでは、意味の無い世界だとわかります。
弱肉強食の動物の延長上線の世界です。
このように、世界は、天才釈迦が喝破した一切皆苦なのですが、それを脱皮するための開運です。
開運とは、単に世間的に成功するだけではありません。
この悲惨な世界から脱出するための開運でもあるのです。
ちなみに、聖書にも似たような話があって、放蕩息子の話として知られています。
あるところに、真面目な長男と放蕩息子の次男がいました。
放蕩息子が家を飛び出して一文無しになって帰ってきた時に、放蕩息子のパパが、よく帰ってきたと、家畜を屠ってパーティーを開き、甘やかします。
もちろん、真面目な兄が、激怒してクレームをつけているのですが、パパは馬耳東風です。
宗教学的には、放蕩息子は罪人の喩えでそれなりに意味のある話なのでしょうが、当然、真面目兄にしては、理不尽過ぎる展開です。
どういうことか、世の中には、こういう理不尽極まる話が多く、真面目に生きている人間は、常にこうした悪の養分になるシステムになっています。
世の中が不景気になり、不正受給の話も常に話題になりますが、
悪が栄えた試し無しどころか、悪が常に善人の上に栄える仕組みになっています。
※ちなみに、単に人間社会が動物の延長上線にあり、進化したサルという弱肉強食の世界というだけのことなのですが。
このような悪に対して、我々陰徳の士はどのように対処していけばいいのか?
謙虚として耐え忍び、口答えしないほうがよいのか?
それとも、断固として戦い、正義を知らしめ、社会に害をなす悪を、打ち倒す方がよいのか?
どちらが功になるかは、未だに、上に立つ者の義務としての、「必要悪」の存在とからんで、謎のままです。