遠山敦子のブログ

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元文部科学大臣、遠山敦子のオフィシャルブログです。

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  6月3日、和歌山県の串本沖に、トルコ海軍のフリゲート艦が停泊しました。かつて1890年、オスマン帝国の木造の巨大な軍艦エルトゥールル号が、オスマン帝国のスルタンから明治天皇へあてての信書を奉呈したあと帰国の途に就き、折からの台風を受けて串本沖で座礁して沈没し、600人近くの海軍兵士が海中に命を落としました。そのとき地元の漁民が深夜に懸命の努力で69人の兵士の命を救いましたが、その出来事が現在に至る日本とトルコとの友好関係のきっかけとなったことは余りにも有名です。

  今回その遭難海域で、125周年記念式典がフリゲート艦上にて行われる予定でしたが、当日あまりに激しい風雨となったため、屋内での式典となりました。日本側は、三笠宮彬子女王殿下、トルコ側からは国会議長がご出席され、式典の壇上にて、追悼文の奏上や献花をされました。トルコの軍楽隊も参加しました。その後、串本町長をはじめ関係者の追悼の言葉や献花が続きました。また、20世紀の終わりに3年2か月もの間大使としてトルコに駐在し、トルコの人々にお世話になった私も式典に参加いたしました。翌朝は空が見事に晴れあがり、海からの美しい日の出を見ることができました。ほんの1日違いで、とても残念なことでした。



  この悲劇と、のちにイランイラク戦争の際に日本人を救出してくれたトルコ航空の話とを映画にする作業が今急ピッチで進んでいます。「海難1890」と題する映画は年内に両国で上映される予定で、トルコと日本の友情が一段と話題になると思われます。
  私は今もトルコとの関係が続いていますが、目下は日本とトルコがイスタンブールに共同で創る日本トルコ科学技術大学の実現に向けて尽力しております。
  この写真は、125周年を記念してトルコ側より寄贈されたエルトゥールル号の銅像です。その精細な再現は驚くばかりです。除幕式も同日雨の合間を縫って挙行されました。





  さて、私がこのブログを始めたのは、2011年8月でした。パナソニック教育財団の理事長として財団のホームページの中にアップしてもらいました。それ以降、国内国外のさまざまな話題を取り上げてきましたが、早や4年近くになります。できるだけ私自身が体験したことをとりあげて、写真も交えながら毎月1日にアップできるように書いてまいりました。まだまだ語りたいことは多々ありますが、今回をもってこのブログを終了させていただきます。
  終了する理由は、この6月12日に財団の理事会・評議員会があり、その席上私は2004年から11年4か月在任させてもらった理事長職を辞任させていただいたからです。
  この間、至らないながら次のような事柄に重点を置いて進めてきました。
  第1に、財団の事業を小・中・高等学校など初等中等教育段階の学校への助成や実践研究に主力を置くようにし、さらに特別研究指定校という枠組みを設けて、すぐれた取り組みが継続できるように、2年間支援することとし、全国の学校のモデルになるようなICTを用いた授業の充実をサポートしてきました。
  第2に、就任直後に「こころを育む総合フォーラム」を立ち上げ、山折哲雄先生に座長をお願いして日本を代表する有識者たちと真剣な討論や提言、全国大賞の創始と優勝した受賞対象の地を訪問し、キャラバンを実施いたしました。この5月にはフォーラム10周年を飾るシンポジウムを開催することができました。
  第3にはグローバル化への対応として、海外で頑張っている日本人学校への助成と現地訪問も行いました。
  振り返れば楽しい思い出ばかりです。学校訪問して現場の先生方や子どもたちとお会いできたことは、実によい経験となりました。いずれも私自身が学ばせて頂く機会になりました。関係した全国各地の学校や関連する専門家の皆様、そして財団の事務局に対しても、財団活動を支えて下さったパナソニック株式会社にも、心からの感謝を申し上げます。今後も主としてフォーラムとの関係が続くため財団の顧問としては残りますが、財団の運営は新理事長の小野元之氏にバトンタッチいたします。
  本ブログを執筆していた期間、力を入れてきた仕事の一つが富士山を世界文化遺産にする作業の最終場面でした。幸いにも、ちょうど2年前の6月22日にそれを実現することができました。現在は、今後の保全管理計画を見直してユネスコへ提出するための作業にかかわっております。
  幼い頃から思い入れのある富士山も7月1日に開山になります。開山直前の富士山の姿をブログ最後の写真としてお届けします。


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  ~ 不二ひとつ うずみ残して 若葉かな ~


  私の好きな蕪村の句です。季節は早や若葉から青葉に移りました。
最後に、読者の皆様のご多幸とご健勝をお祈りして、筆をおきます。

 5月23日午後、東京内幸町のイイノホールで、「こころを育む総合フォーラム」の10年の活動の節目となるシンポジウムが開催されました。爽やかな5月の土曜日の午後にもかかわらず、大勢の参加者をお迎えすることができて、主催者として大変有難く思いました。このフォーラムは、公益財団法人パナソニック教育財団の事業の柱の一つで、これまで10年にわたり有識者による会議、提言、全国大賞の贈呈、全国各地でのキャラバンなどさまざまな活動を実施してきた経緯があります。


フォーラムの成り立ちとねらい
 今回は、それらの諸活動を振り返るとともに、未来に向けて「次世代に伝えたい日本人のこころ」というテーマでシンポジウムを開催しました。フォーラムの活動は2005年の4月に始まりましたが、私はその1年前の2004年に同財団の理事長に就任いたしました。パナソニック教育財団は学校助成の仕事を中心に運営されてきましたが、それに加えて何らか世の役に立てる意義ある事業はできないか、との勧めもあって発足させたものです。背景には当時の世相が相次ぐ犯罪、組織の不祥事、いじめや詐欺の横行、加えて人々の意識が余りにも物質中心で心の豊かさを求めなくなっていた状況があったからです。



 こうした問題を考えるため、各界の有識者に集まっていただくこととし、まず、座長にお願いするべく宗教学者の山折哲雄先生をお訪ねしました。直ちにご賛同をいただき、その後は財界、学界、教育界、文化やメディアの代表者16名にお集まりいただき、毎月1回、早朝から会議をひらき、こころを育むという問題に集中しての討議を続けました。そして、2007年1月には提言書をまとめ、家庭、学校、地域、企業がどうあったらよいかをまとめて発表しました。(提言書の内容はこちら からご覧ください)
 活動の第2弾として2008年度からは、全国各地で提言の趣旨に合致した優れた活動をしておられる団体や個人に着目し、それを取り上げ、褒めることを通じて全国的にこの運動をひろめようと「全国大賞」をお出しすることに致しました。今日まですでに、7回にわたり大賞をお出ししてきました。受賞の活動は、いずれも地域に根差し、大人と子どもと協力しあい、工夫を凝らした素晴らしい内容ばかりです。


基調講演
 今回のシンポジウムは第1部として、座長の山折哲雄先生の基調講演から始まりました。山折先生は、日本人のこころの在り方の変遷を考えるのに、1970年代にベストセラーとなった土居健郎著の「甘えの構造」をとりあげ、相手との間に生じる甘えの関係があったことから説き起こし、後年、著者の嘆きとしてITが発達して「相手」がなくなり、全て「他者」となったことから、現代のIT社会の問題性を指摘されました。さらには、漱石の「こころ」がもともと新聞紙上では「心」であったことをはじめ、和語と漢字の違いからくる心性のことなど深い考察に基づくお話がありました。


これまでの活動の紹介
 第2部の前半は、フォーラムの10年の活動を映像で紹介するプログラムでした。すでに小欄でも取り上げましたが、例えば熊本市の「オバパト隊」という市民パトロールのいきいきした状況や三重県の石槫小学校で地元の大人たちが今も活動している様子が紹介されました。
 後半はまず、2013年の大賞をうけた熊本出水南小学校の2人の児童が、隣の支援学校の児童との交流の体験から得た他者を思いやる心を作文に綴り、読み上げてくれました。会場は大きな感動でつつまれました。子どもたちの心に培われた他者へのぬくもりの気持ちは、きっと将来も忘れずに彼らの言動を導いてくれることでしょう。




 その後、大賞をうけた事例のうち山形の置賜農業高等学校の演劇部の生徒たちによる「食を伝える食育ミュージカル」が、野菜のぬいぐるみを着て食物の大切さを訴える楽しいミュージカルの舞台が披露されました。




パネルディスカッション
 第3部は、フォーラムの有識者メンバーに出席いただき、パネルディスカッションが行われました。どなたも著名な学者や小説家やメディアの代表者であり、議論は自在に進みました。

パネラーは次のとおりです。
 ・上田紀行氏(東京工業大学リベラルアーツセンター教授)
 ・中村桂子氏(JT生命誌研究館 館長)
 ・平野啓一郎氏(小説家)
 ・滝鼻卓雄氏(元 読売新聞東京本社 会長)
 ・安西祐一郎氏(日本学術振興会 理事長)


 そして幅広い話題が展開しましたが、例えば次のような事柄が強調されました。①こころは、人と人の関係によって育まれるものだが、インターネットやSNSを使う現代は情報機器が間に入るため直接の触れ合いを欠き、こころは育まれないのでは、②演劇をしてくれた高校生のように、まさに生きていることに意味があり、ごく小さい生き物との向かい合いも大切、③人は自分で見て、自分で考え続けることが大事、④子どもたちは学校でコミュニケーションのあり方を学ぶが、学校は共通性をおしえながら個性的であれと矛盾したことを教える。社会は多様な人々によって成り立つので多様性が必要、⑤自分が恩恵を受けている公共の部分への認識がいる、⑥自己肯定観こそ大事である。まさに然りでそれがないからこそ、自分をコントロールできず、凶悪な犯罪を起こすのだと私も思います。
 その後、議論は人から尊敬されることが大事だが、日本には最近若い人が尊敬できる人がいない、との発言をきっかけに尊敬論が中心になりました。偉人伝の減少の話もありましたが、より身近なところでの尊敬すべき人々が大事との話もありました。




思ったこと
 それらの話を聞きながら、私はあの東日本大震災のときに東北の被害者の方々がみせた譲り合い、助け合い、順法の精神こそ、日本人の姿として世界中の人々が尊敬の声を上げてくれたことを思い出します。
 時間もなく今回は議論には出ませんでしたが、私は伝えるべき日本人のこころとして、①一人の人間としての勤勉性や誠実な生き方、②他者に対する思いやりや礼節、③安全・安心で清潔な社会を形成する精神、④自然への畏敬の念などいくつもの価値観が浮かび上がります。物事を究める精神や共に創りあげる力も日本人のこころとして伝えていきたいものです。
 今回のシンポジウムについて、参加者の皆さんからのアンケート結果からは幸いにも称賛の声がよせられており、こころの問題に関心を寄せる多くの方々の存在を知りました。参加者のお一人一人に、何らか希望や考えるきっかけを呼び起こしていただくことが出来たのであれば、誠にうれしいことと思いました。




[ 鎮座400年大祭 ]
 去る4月17日、静岡市の東にあたる久能山東照宮で、家康公の薨去から400年を記念する御例祭が営まれました。いうまでもなく徳川家康公は、それまでの150年にわたる長い戦乱の世を治め、江戸に徳川幕府をひらき、その後260年に及ぶ平和な江戸時代を日本にもたらしたすぐれた統治者です。

 大祭は、徳川家18代当主の徳川恒孝さんやご一族、尾張徳川家、水戸徳川家、紀伊徳川家や松平家などをはじめとし、久能山東照宮に関係の深い神社や寺などの宗教家代表や地元代表などの参列がありました。司祭を衣冠束帯姿の徳川恒孝さんが務められ、地元の頭(かしら)たちによる威勢のよい木やりの先導で、社殿まで晴れやかな行列が続きました。
 本殿や拝殿は最近美しく塗り替えられて国宝となりましたが、もともと日光東照宮のモデルとなったとされる華麗な建物です。大祭はその拝殿で、まず三品立神饌(さんぼんだてしんせん)という山海の珍味が神前に供えられ、ついで、落合偉洲宮司による祝詞奏上、司祭や徳川家の人々の参拝、舞の披露、宮司の一拝、玉串の奉納などが続き、例祭は滞りなく終了しました。四〇〇年という長い歴史を物語る、荘厳で緊張感のある祭典でした。
 鎮座大祭は、百年祭をはじめとし、これまで50年ごとに営まれてきました。近年では大正4年に300年祭、昭和40年に350年祭が行われたと聞き、歴史を感ずる行事です。



[ 家康公と駿府 ] 
 家康公は、幼い時今川義元の人質となり、現在も残る静岡市の臨済寺で過ごされました。その後、桶狭間の戦いで勇将今川義元が信長に敗れたことにより解放されて三河に戻りました。その後も、信長、秀吉の時代が続き、激しい戦乱と残虐に敵を征伐する時代を過ごしながら、「鳴くまで待とうほととぎす」とうたわれるように、忍耐と寛容の精神をもって、将軍となる日に備えた賢明な武将であったと思います。

 家康公は、関ヶ原の戦いで勝利し、1603年には天皇より征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きました。家康公が、力による武断政治を終焉させ、天下泰平の基礎を築き、人命の尊重、教育の充実を図るという政策をすすめたことは瞠目に価します。その上、外交上の開国主義を貫いた姿勢を知り、私は感銘をうけました。ことに新興国オランダやイギリスと外交関係を結ぶなど、1604年に駿府に移ってから家康公薨去の1616年までの13年間に幕府は朱印状を約200通も出しています。家康公がエリザベス女王を継いだジェームス1世に甲冑を送り、今もその甲冑がロンドン塔にて展示されていることは日本ではあまり知られておりません。
 その家康公は、最後の日々を駿府城で過ごし、薨去後は家康自身の遺志により、まず久能山に移して神葬が行われました。その後日光の東照宮に移されましたが、今もご神廟は東照宮の社殿の奥に位置します。このように家康公と駿河、今の静岡とは強いつながりがあったことを感じます。


[ 私にとっての静岡と富士山 ] 
 私は中学1年生の秋、父の仕事の関係で静岡に転居しました。その時、秋空を背景にくっきりとそびえ立つ富士山を初めて仰ぎ、粛然とした気持ちになり、以後富士山の存在は私の人生にとって大きな指針となりました。中学校は駿府城址にあった戦時中の兵舎で学び、今思えば家康公との関わりを感じます。


 その頃父は静岡鉄道に招かれて、日本平と久能山を結ぶロープウェイを作るべく、自ら険しい屏風谷を踏査して設計し、実現へ必死に努力していたようでしたが、完成したのは今から60年近く前の昭和32年の秋のことでした。今もそのロープウェイは、日本平と久能山の中腹をつないでおり、かつては海岸から1159段の石段を登るしか参道はなかったのですが、新たな別ルートができたのでした。

 日本平からみた富士山の眺望は天下一品で、最近中曽根康弘元総理の揮ごうによる石碑も建てられました。若い頃の私にとって富士山は「あこがれ」の対象であり、東京に出て仕事に励む時代は心の「よりどころ」であり、現在は富士山を見ることで精神の「やすらぎ」を得ております。
そうしたご縁もあり、私は富士山を世界文化遺産にする作業にこれまで10年も関わる(富士山を世界遺産にする国民会議理事長)ことができ、その後も何かと静岡との縁が深い次第です。今回招待をいただいて拝殿に上がる光栄に浴し、大祭の一連の流れを目の当りにすることができました。



[ これからの静岡と地方文化 ]

 静岡では最近、富士山が世界文化遺産になったことを契機として、川勝知事の強いリーダーシップのもと静岡市とも連携し、今は空地になっている東静岡駅前に文化の拠点を創り出し、そこから日本平までの一帯の丘を文化の丘として発展させ、さらに日本平山頂に360度の展望を楽しめる何らかのシンボル施設を作り、久能山東照宮も巻き込みながら、日本平から三保の松原に至る一帯を、静岡の新たな文化地域とするべく、大きな構想が動き始めております。
 また文化庁では、日本全国を見渡して、特色のある地域の伝統文化を取り上げて、新たに日本遺産として指定する動きが始まりました。各地にそうした地域文化の拠点を創ることは、文化の国日本を地域から活性化させ元気づけることになるでしょう。伝統や文化は単に保存するだけではなく、現代に生きる私たちが創造的に活用することで価値が倍加するのだと思います。各地でよき事例が積み重なり、日本文化の底力を引き上げてくれることを期待しています。