近所はしりまわってみたのよ
わんこの友達に場所をきいてた
近隣スーパーめぐりして
品ぞろえと値段を把握してきたのぉ
で、榎本武揚の件だけど
ママチャリで白髭団地前を通りかかったらね
この下町にありえないような
立派な銅像が団地の玄関前にあって
おっどろきだ~~~~っ
「おおおおおぉっ~~~
榎本武揚(えのもとたけあき)の銅像だでぇ~」と
歓喜に近いよろこび声がでてしまった
・・・だってえのもとたけあき好きなんだぁもん
で、きっと多くのみんなが
知ってても忘れたりしてると思うから
ブログしとくよぉ
なぜか墨田区の白髭団地(しらひげだんち)
エントランスにたってたの
説明書きしとくね
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
榎本武揚の像
(所在:墨田区堤通二丁目26-3号梅若公園内)
武揚は、天保7年(1836)下谷(現台東区)の通称
三味線堀に生まれる。
天性聡明で学問を好み、昌平黌(しょうへいこう)で
儒学を、さらに江川太郎左衛門の塾でオランダ語
英語を学んだそうな。
幕府の海軍伝習所が開設されると入所し、
オランダ人教官より洋式海軍技術、蒸気機関、
機械製造などを習得、当時未知の学問であった
化学までも学んだとか。
文久2年(1862)にオランダ留学、国際法規を修め
帰国。帰国後は軍艦奉行や海軍副総裁へと昇し、
幕府海軍の柱となる。
幕府が崩壊するや軍艦を率いて函館五稜郭に拠り
薩長軍と戦うが敗れ捕えられます。
しかし明治新政府には彼を惜しむ声が強く、
明治5年に許され、当時難問とされた
樺太帰属問題解決のため、海軍中将特命全権大使として
ペトログラードに派遣され、見事交渉に成功。
その後は、通信・文部・外務・農商務の各大臣を
歴任し、枢密顧問官となり、功績により
子爵を授けられる。
晩年は、向島に住み、
墨堤を馬に乗って散歩する等悠々自適の生活
を楽しみ、明治41年に73才で死去したそうな。
墨田公園内の「墨堤植桜之碑」、
多門寺の「毘沙門天」の標石は
榎本武揚の書だって説明に書いてあったから
こんど写真撮ってブログするよぉ~~
ちなみに墨堤の今日の様子だよん
3時過ぎに通りかかったから
水面がキラキラ輝いてきれいだったよぉ~
榎本武揚もこの川の水面を眺めて
馬に乗ったんだ~と思ったら
ああぁ~~感無量なのさぁ~(幸せ合掌)(*^▽^*)
あとはね、桜
梅若公園の隣にイオンのスーパーあるんだけど
その前桜が満開になってたよぉ
榎本武揚 シベリア外伝
読んでみてね