村元哉中・髙橋大輔組フリーダンス「オペラ座の怪人」。


哉中さんを持ち上げる大輔さんの表情が、なんとも優しいことにちょっと衝撃を受ける。「オペラ座の怪人」の世界ではなく彼の地が出たような、それくらい自然な表情で、しかし、そういう表情をちゃんと演じているようにも思えて。

仮面の下のファントムは、こんな風に優しく、こわれ物を扱うような表情だったのか?

少なくとも私の今までのイメージのファントムはそういうものではなかったから意外で。しかし、クリスティーヌの存在こそ希望だったファントムである以上、そういう表情でもまったくおかしくはないわけで。

これが、大輔さんのファントムなのか。




以前の記事にも書いたけれど、私はこの秋、かなだいのフリーダンスの予習として「オペラ座の怪人」のブルーレイを購入し視聴した。


予習することで、前提知識が少ない場合よりも深く対象を探ることができるが、一方で先入観を持つことにもなる。

私が見た25周年記念公演の「オペラ座」、それは支配と愛の物語だと思った。

ファントムはオペラ座の人々を恐怖で操り、歌っているクリスティーヌに対し、「Sing for me!」と高らかに声を重ねる。支配する喜び、支配者であろうとする意志を明確に感じた。


しかし、髙橋大輔という人は、他者を支配したいという人ではない。

いや、支配する存在を演じることが出来るのは知ってる。「Love On The Floor」の「実験」で彼が演じたのは、そのカリスマ(?)で人々を支配する新興宗教の教祖のような存在だ。そう演じてくれと求められれば演じられる人である。

しかし、今回の「オペラ座」は、ズエワコーチいわく「ダイスケのライフストーリー」だ。

つまり、他者に対する支配欲が薄い大輔さんに、他者を支配したい人間の物語をやらせるとは思えない。

「オペラ座の怪人」は、母に捨てられた子、ファザーコンプレックスなど、物語の中に色々な要素が入っている。支配の物語でなければ、そういう要素の中の別の部分を中心に構成されることになるんだろうなと、私は事前に色々妄想して楽しんでいたのだ。

これかな?と思いついた物語類型もあったんだけど…いや、その予想は外れてた。




ファントムの優しい表情。あなたとずっとこうしていたいという思いを感じる。しかしリフトをしているときだから、哉中さん、いやクリスティーヌはその表情を知らない。彼女は高い位置でずっと前を見ているだけだから。

その優しい表情が、演技が終わった後も頭に残っていた。で、数日くらい「このときの大輔さん、いやファントムは、どういう気持ちなんだろう」と時折考えることが続いた。


で、ある日思い出す。「人間は誰でも与えたいと思ってる」という大輔さんの言葉を。

なんか分かった気がした。

大輔さんは、いや、ファントムは、与えたい人。そして与えることでクリスティーヌ、つまり人と繋がろうとする人なのか、と思ったのだ。

自分に自信がなくて、だから自分の能力を尽くして得たよきものを相手に与え、それによって繋がろうとする。それが幸せという人で。

しかしその幸せを失うことが怖くなり、相手を束縛する方向へと暴走する。


与えることによってつながりたい。それが、この物語のファントムだったのか、と、勝手に解釈する。




一方で哉中さんが演じるクリスティーヌは、自分の足で立ちたい、そんな女性に見える。少なくともラストシーンのクリスティーヌはそんな雰囲気だ。

このプログラムに、クリスティーヌの恋人のラウールの存在を私は感じなかった。クリスティーヌは恋人がいるからファントムから離れたのではなく、あくまでファントムとの関係がこじれたから離れることを選んだように見えた。


そして私がこのクリスティーヌから連想したのはミュージカルの「オペラ座の怪人」ではかなり戯画的に描かれていたカルロッタのプリマドンナとしての矜持。そして、25周年記念公演のカーテンコールで現れた、初代クリスティーヌを演じたサラ・ブライトマンの姿だった。彼女は自分と同じく招待された、これまで各国で演じられた「オペラ座」のファントムを演じた四人の俳優と一緒に歌ったのだ。四人のファントム(そして最後は本公演のファントムも入って五人となる)と渡り合う、ただ一人のクリスティーヌ。見事な堂々たるプリマドンナだった。


うーん。

ズエワコーチは、このプログラムを「ダイスケのライフストーリー」と言ったけれど。

いつか一人になることを覚悟している(というか、世界選手権後、彼女は一人大輔さんの続行かどうかの回答を待ち続けていたわけで)哉中さんに対して「あなたは一人で立って歩んでいける、それだけの力を持った女性だわ」と、伝えたい気持ちもあったんじゃないだろうか?


なんて、ちょっと思ってしまったのである。