チャンバラ映画、清水港の名物は~♪ | 独創的未来の創造と発見

独創的未来の創造と発見

創作活動と建築現場の独自調査・省力工法、等を紹介します。

次郎長三国志



今日はマキノ雅彦監督 2作目の 次郎長三国志を観に行った。




清水港の名物は~♪お茶の香りと男伊達~♪


大馬鹿者でござんす。


義理にゃ弱いが喧嘩にゃ強い、


次郎長、お蝶の恋物語にホロリと涙。泣ける、大人のエンターテイメント


     パンフレットより
08092005



■熊本から玄海竜二と勝野洋二人の俳優が参加していた。


 清水港の名物は~♪この歌は、若い頃良く聴いたり、歌った(古い奴と思いでしょうが古い奴なんです)。


今回の映画は2時間15分と、とても長い映画だったが、笑いあり、チャンバラあり、涙ありの、文句なしの大衆娯楽映画として楽しめた。殺陣は、熊本の大衆演劇の座長玄海竜二が担当、昔、子供の頃によく見た東映のチャンバラ映画を思わせるタッチの映画だった。大衆演劇の映画版といったところだ。太刀廻りは、手順殺陣というか決まり殺陣というか、まさにチャンチャンバラバラチャンバラバラといったところで、大衆演劇の太刀回りレベルのもので迫力は無かった。まっそれでいいんだろうが・・・俺も昔太刀廻りをやったことがあるんだぜッ。花登筺の『どついてんか』という舞台で、相手は昔大映映画のスターだった本郷浩二郎。俺の役は、やくざの役で因縁付けに行き店先で太刀回りになる。こっちは長ドス相手はでかいそろばん、俺がフッという息でサット長ドスで本郷の腹を刺そうとする。するとそれをそろばんで下から払いのけ俺の頭を一撃する。という手順だ。だがそれを本郷は間違って上から下に祓おうとするから、俺の手をまともに叩く、後で御免御免といっていたが・・・実際にやってみるとお互いの息が合わないと簡単にはいかない。大衆演劇も好きで歌舞伎役者の人たちとよく見に行った。歌舞伎にしろ大衆演劇にしろ一つの形芝居だからな、リアルさを求めない形の美というか動きの美というか、観ているものを納得させるものがあれば客は喜ぶ、笑いにしても笑わせるための仕草や言葉が笑わせようとしていると解っても笑ってしまう演技には納得するだろうし、泣かせる場面も同じことで、これから泣かせる場面になると解っていて涙が溢れて止まらないなら映画や芝居が終了したときには、きっと納得するだろう。今回の映画はそうした今から笑わせますよ、泣かせますよ、というストーリーの形の中で、笑い泣いてしまう。という納得できる映画だった。


朝丘雪路の娘がやくざものの元気な女房役で出ている。巻き舌(らりるれろ)でまくし立てる台詞の言い回しがとても痛快で役にはまっていた。ところで、此処だけの話だが・・・俺は昔朝丘雪路と新橋演舞場で一緒に仕事したことがあるんだぜッ。第七回朝丘雪路奮斗自主公演第1部明治一代女第二部舞踊風流花拍子第1部には津川雅彦も出ていた。原作は川口松太郎 演出はマキノ雅弘だった。 あとで思い出で紹介する。

勝野洋は、九州学院高校の同級生で3年生の時同じクラスだったが・・・思い出はないネ。


今日は、封切りで、また20日という割引の日なので、けっこう観客も多いかと思ったが・・・30人程度だった。年配の方々ばかりだった。時代劇は封切りでほとんど観ているが、やはり観客は洋画のアクションものに比べ少ないように思える。


最近はレンタルビデオが流行し、劇場まで足を運ばなくても気楽に安く自宅で映画が観られるとあって、高いお金を払って劇場まで行かない傾向にあるのかも知れないが・・・俺は、やはり映画はDVDで観るより劇場で観たいと思う。


 




■実在の次郎長の経歴を調べてみた。

  サーチ気になる部分をピックアップしてみた。


 次郎長はすごい男だった。




1820
文政三年
1月1日 駿河国有度郡清水町美濃輪に生まれる。生家は薪炭を商う『薪三(まきさん)』。船持船頭三右衛門の次男。長五郎と名付けられ、母方の叔父、甲田屋(米穀商)次郎八の養子となる。次郎八の子の長男というので『次郎長』と呼ばれた。


1834
天保5年
15才
粗暴な挙動改まり、甲田屋に戻る。江戸に行こうとして許されないため、百両あまりを持って家出。浜松に行き米相場で巨利を博し、清水に帰って家人を驚かす



1858
安政5年
39才
捕吏をのがれ、子分達を連れ、名古屋の巾下の長兵衛のもとに逗留。12月晦日、『おちょう』病気のため死去。


1866
慶応2年
47才
笠砥神社(三重県)の祭礼の賭場に安濃徳ら黒駒勝蔵の一味が集まる。吉良の仁吉や大政ら清水の一党二十二人が、荒神山で血闘。大政が首魁の門之助を倒したが、仁吉は重傷、法印大五郎ら討死する。次郎長手勢四百人余を引連れて船で伊勢に渡り、安濃徳らは陳謝する。―荒神山の血闘。

1869
明治2年
50才
二月、二代目おちょう、次郎長の留守中徳川浪士と思われる男に白昼斬殺される。子分田中啓次郎、犯人と妙音寺にて討取る。山岡鉄舟、「壮士之墓」の墓碑銘を揮亳(きもう)する。幕臣杉方了二(後の初代統計局長官)次郎長と会い、三保の塩田、有度山の開墾など移住土族投庫の道を探る。十二月、廻船問屋松本屋の奥座敷で、新門辰五郎、次郎長と会い、徳川慶喜護衛役を依頼


1878
明治11年
59才
波止場の建造、港橋の完成。アメリカ前大統領グラント将軍来港、次郎長は漁師達を集め投網を披露。11月、 山岡鉄舟が、戊辰戦争で不明となった父母妹の行方を尋ね遍歴する天田五郎を次郎長に引き合わせる。天田五郎は次郎長の家に逗留し、次郎長一代記『東海遊侠伝』を執筆。次郎長は全国の親分らに手紙を出し、五郎の父母妹の探索を支援する。



1893
明治26年
74才
6月12日、次郎長、風邪がもとで死去。梅陰寺にて葬儀。参列者は3000人を超えた。法名は碩量軒雄山義海居士。
 



参考資料 清水次郎長翁より

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



  ■思い出 なつかしいぜッ




08092008


08092007


08092009



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

bana080601 bana080607 bana080610 bana080612 bana080622
bana080602 bana080605 bana080620 bana080615 bana080621
bana080603 bana080609 bana080619 bana080614 bana080617
bana080604 bana080608 bana080618 bana080613 bana080611