昨夜に続いての幕末です
150年前の本日は慶応3年4月15日。
この日、隊士の田中寅三さんが切腹致しました
翌日、寺町本満寺に潜伏露顕に依て、午刻割腹。
其節虎蔵辞世。
何方も吹ハ吹せよしこの風 高天の原ハまさに吹まし
四方山の花咲ハ咲時されハ 萩もさけさけ武蔵野にまて
(莠草年録)
… 屠腹せしめられたり。
時に歳二十七。
辞世の和歌を遺す。
何つかたも吹ば吹せよしこの風 高天が原はまさに吹まじ
四方山の花咲みたる時なれは 萩もさくさくむさし野まても
(新撰組始末記)
田中寅三菅原正久 四月十五日 新選組
(往詣記)
慶応三年四月十六日 田中寅三 正久
(光縁寺墓碑銘)
昨夜の記事にて脱局した田中さん。
あっさりと潜伏場所を突き止められての切腹です。
辞世の句は、微妙に書き方が違っていますが、
「しこの風」というのは「醜の風」ー つまり新選組の事?
そして「萩」は、無論長州藩のことであり、
その花が武蔵野ー つまり江戸の方まで咲けよと。
27歳という若い命でした。
彼の即日の発見は、
もし御陵衛士に入りたいと善立寺に行ったのであれば、
カッシー派によるリークだろう、との憶測も成り立ちます。
つまり、保身の為の新選組への通報ですね
ただ、確証があるわけではありません
亟ちゃんをはじめとする、新選組の探索方は優秀ですからね
すぐに遠方へ逃げてしまったならともかく
市中であればすぐに突き止められても、不思議ではないはず
また、本当に「過激なまでの攘夷派」であったなら
この頃のカッシーとは、
ちょっと思想があわなかったという可能性も
あるのではないでしょうか
九州遊説後のカッシーは、
極端な「攘夷」を唱えていたわけではない
と、私は思うのです
天皇を中心として、西洋の文化や武器も受け入れつつ
協議による政治を目指していたと思います。
ただ、「五畿内は天皇領としての鎖国」
という、攘夷的な考えも、あったようですけど
ただ、潜伏先の「本満寺」は、徳川家と関わりのあるお寺
とのコメントを頂き、ちょっと調べてみました。
確かに、8代将軍吉宗さんの病気平癒を祈って効があったことから、
以来、将軍家の祈願所になっているとの事。
ただ、もともとが近衛家所縁のお寺との事で、天皇とも結びくのかな。
それとも、たまたまなのか。。。
田中さんのこの切腹が、もし本当に
「移籍禁止の条約違反」
によるものであり
「みせしめ」の意味もあったのであれば
それでも脱局をしようと試みる隊士たちは
それだけ強い信条があったということなのでしょうか
田中寅三(右端)墓碑 光縁寺 12年9月撮影
2017年皐月18日 汐海 珠里
※ 昨夜、旧暦は難しいとのコメントも頂きました。
それのお返事に書き加え損なった事をひとつ。
150年前の昨日は、高杉晋作さんが亡くなった日でもあります。
つまり、慶応3年4月14日が晋作さんの死亡日なのですが
新暦に直しますと、勇さんと同日なのですね。