本日、新暦での勇さんの命日 (。-人-。)

 (慶応2年4月25日・1868年5月17日)

来年の今日は、この日のことを書かねばならないのですね ショボーン

 

で、

先日からの絡みで、今日は何か起こるのではないかと、

ちょっと期待 笑 したのですが、特に何事もなく キョロキョロ

道で転んだくらいなのは、ねぇ、特にいつものことだし。。。 えーん

 

 

さて、幕末です ニコニコ


150年前の本日は、慶応3年4月14日
この日、隊士の田中寅三さんが脱走しました。

 


四月十四日夜、新撰組田中虎蔵脱局。
    (莠草日記)

 


田中さんのお名前が新選組の記録上に一番初めに登場するのが
元治元年8月。
勇さんや武田さんと一緒に、久留米藩京都藩邸を訪れています。

   (おそらく参考になりませんが、その時の記事は こちら☆ )

 

6月の池田屋事件の記録にはお名前がないので
その間に入局したと思われます 目

 

11月の第一次行軍録では、三番井上隊です。
   (行軍録の記事は 
こちら☆ )

 

 

その後の亟ちゃんの「取調日記」による隊士録では

一ちゃんが組頭であったと思われる五番平隊士となっています。

   (取調日記については こちら☆ )

 

 

西村兼文さんによれば、

この田中さんは、過激な尊攘派だったといいます。

 

 

隊士田中寅蔵信行は、旧加州藩に於て、隊中屈指の撃剣者なり。
品行も亦方正なるか、過激の攘夷説を主張したるが夫が為嫌疑を被り…

   (新撰組始末記)

 

 

この記述と、島田さんの「英名録」に記された△印

(田中寅三・佐野七五三之助・中村五郎・富川十郎)

によって、カッシー派として認識されていますね。

また英名録では、出身を、加州金沢と書いています。

   (英名録については こちら☆ )

 

 

なのでこの日の脱走も、

カッシーのもとへ行ったものと、いわれています。

 

ところが !!

新選組隊士と御陵衛士との間には、相互間の移籍禁止の条約がありました。

 

 

今後、互に脱局して新撰組より御陵へ、又御陵より新撰組へ附属を願ふ者あるも決して許す可らす…

   (江戸会誌・近藤勇の事)

 

 

この「相互間移籍禁止」の項目については、

今のところ、この一点のみしか記録がない(と思う)のですが

島田さんへの取材であったことから、信憑性が高いものと思います。

すみません 汗

先日の記事の中かコメントのお返事かで

この「相互間移籍禁止」が実際あったのかどうか、ちと疑問もあるかも! 

と、書いた覚えがあるのですが…あせる

その後、気になって出典元を調べた結果、

確かにあったのではないかと、推測されます m(__)m

 

 

なので、

脱走してきた田中さんを、おそらくカッシーは

困惑を持って、迎えたのではないかなぁ アセアセ

まだやっとスタートしたばかりの「御陵衛士」。

もしここで田中さんを受け入れてしまったら…

と思ったのかどうか ショボーン

結局彼は拒否されて、寺町通りの本満寺に潜みます。

 

と !

これ通説になっているだけで、

まったく違う事情なのかもしれませんけれどもね !?

 

 

このことについては、ブロ友さんのMさまが

とても興味深い見解を、発表なさっています。

Mさまの記事は こちら☆

 

 

さて脱局した田中さん、翌日には見つけられてしまいます ガーン

そのことについては、また明日に。

 

 

   2017年勇さん祥月命日  汐海 珠里

 

※ 追伸

昨日、仕事帰りにスマホを新しくしました。

いやぁ、色々と、大変っ アセアセ

データ移行は思ったほどでもなくサクッとできたのですが

アプリを全部入れなおさなくちゃいけないし。。。

あっ !

肝心の、乗り換えアプリ入れないとっ !

これ無いと、どこにもお出かけできない アセアセ