勤皇の志士 福田侠平 | 何処へ行くんだ! 土佐瑞山

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明日死ぬかもしれない。 だから今日を悔いなく生きる!
回遊魚の如く動き回らないと酸欠状態になる。帰巣本能を忘れた肉体派オヤジの全く世の中の役に立たない独り言・・・

維新の英傑、高杉晋作が最も頼りにした男…




長州藩士 福田侠平(良輔)


文政12年(1829) 吉敷郡山口後河原無給通 十川権右衛門の次男として生まれました。


諱は公明、号は悠々。

その後、大津郡伊上村の藩士、福田貞八の長女キヨを娶って福田姓を名乗ります。

文久3年(1863) 下関にて結成された「奇兵隊」に入隊。


海岸台場掛に就き、元治元年(1864) 四ヵ国連合艦隊下関砲撃の際は書記。


その後参謀を努め、慶應元年(1865)には山県狂介(有朋)と共に軍監を努めました。


僅か2年で№2に昇格した事実を見ても、彼がいかに


高杉晋作をはじめ奇兵隊隊士から慕われ、信頼されていたかが判ります。


「大田・絵堂の戦い」 「四境戦争・小倉口」いわゆる第二次長州征伐などを


山県狂介(有朋)と共に奇兵隊の軍監として参戦、勝利しました。



慶應3年(1867)10月には、広沢正臣、品川弥二郎と共に京都に上り、


朝廷より 倒幕の密勅を長州藩に持ち帰り、翌 明治元年(1868)の戊辰戦争では


高杉晋作亡き後の奇兵隊を率いて、北越方面に出征し会津・長岡藩ほか


奥羽越同盟軍を相手に激戦を繰り広げて勝利しました。



11月12日に長州 山口へ奇兵隊を率いて凱旋帰国した彼は下関へ赴き、


酒を浴びるほど飲み続けて2日後の14日、卒倒してそのまま息を引き取りました。




享年40歳



「至誠院清山公明居士」




彼の遺言どおり下関・吉田清水山の高杉晋作が永眠する墓所のそばに埋葬されました。


また彼の遺髪を納めた墓が同志により住居としていた山口・大内氷上にも建立され、


平成に入り大内氷上の有志により、彼の眠る東行庵より分霊された位牌が


氷上山興隆寺北辰妙見社に祀られております。






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