今、この露姫の影虎に対する心情を、玄有の口から聞いた安明の亡霊は、肉体だけで無く、魂までをも失ってしまったかのようで、ただそこに揺らめいている。

「…………」

 露姫との睦言を回想して語り終わった玄有は、これを聞いた安明の沈黙が、絶望によるもので有ると推断した。そして、自身の命の存続に一縷の光を見い出して、さらに、熱情を持って語り続けた。

「安明、いや影虎よ。露姫にとって、お前は、そのような存在に過ぎなかったのだ。露姫は、お前を男として愛しいなどとは、ゆめゆめ思うことも無かった。そんな女の為に、お前がいつまでも、こうして未練を残し、怨霊と成ってまで、この世に留まっている理由は、どこにも無いのだ」

「…………」

「お前は早く成仏しなければならない。そして既に、この世を去った者が、遺恨が有るからと言って、無用な殺生は決してせぬことだ。さあ、もう怨念を消し去るのだ。鶴丸を使ってけしかけた、この熊太郎とか言う風来坊が、欲に駆られて殺人と言う悪行を重ねるのを止めさせろ! それから、お前は、そのまま、この寺から去って、冥土へ旅立て!」

 玄有は、怨霊が完全に霊力を失っているのを確信していた。この自身の存命が懸かっている絶好の機会を、何としても逃しては成るものかと、必死の形相で、

「さあ早く、この熊太郎を退かせろ」

と畳み掛けた。

 熊太郎は呆然と、玄有の一人語りを聞いていたが、話の中に自分の名が出て来たことに反応し、

「やいっ、色欲狂いのくそ坊主。貴様の寝物語など、どうでもいいわ。さあ、お前こそ、さっさっと往生を遂げて、冥土へ向かえ!」

と刀を頭上に高々と構えた。

玄有は再び焦燥と、死の恐怖に全身を硬直させて、震える手を前に突き出した。

「待て! 安明よ。私を殺しても何にも成らぬ。分かっただろう。結局、露姫は、お前のことを、ただの従者としか思っていなかった。そもそも、今の露姫には、恋だとか愛だとか、そんな事はどうでも良かったのだ。そんな事は全く考え無い女だった。お前の信じたかった物は、どこにも存在していなかったのだ。そんな女の為に、」

怨霊の安明が、玄有の言葉を遮り、

「言うな! もう、それ以上、一言たりとも聞きたくはない」

と静かに、しかし激情を込めて吐き捨てた。

無論、影虎で在った頃の安明も知っていた。

露姫が、影虎と言う一人の武士を、一番身近な従者とは思っていても、そこに恋の気配が生ずることは永久に無いであろうことを。影虎は、ずっと、その現実から目を背けていたかった。影虎は、ただ露姫の側にいられれば、それで良かった。

かつての影虎にとっては、霊魂と成った今でも、露姫の心の内から出た真実の言葉を、玄有から突き付けられて、それを受け止めざるを得ないのは、あまりに辛かった。茫然自失に成りながらも、その哀しみを振り払うかのように、怨霊の安明は、玄有の身を呪うしかなかった。

玄有は、怨霊の安明を説得し、何とか丸め込もうとした自分の策略が、失敗に終わったことに絶望している。そして、一歩、また一歩と後ず去って、ますます断崖の際に追い詰められて行った。

熊太郎には、その玄有の有様は、まさに怨霊に取り付かれ、滝壺に引き摺り落とされて行くように見えている。

 玄有の足は、あと半歩で踏み締める岩を失う。気が狂ったように口を大きく開けているが、叫び声は出ず、死相を浮かべている玄有。その玄有の反り返った胸に、熊太郎の体は何かの力に操られているかのように動いて、刀を一突き刺した。

 玄有の体は一瞬、後方の空を舞うように踊った。そして、絶叫しつつ頭から真っ逆さまに下方へ落ちてゆき、滝の白く煙る水飛沫の中に消えて行った。

やがて、午後の黄金色の陽光を映し、鏡のように輝いていた水面に、静かに波紋が広がって、その中心に、玄有の体が、ぷかりと浮かんで来た。

熊太郎には、玄有の体が、まるで滝壺の底に吸い込まれて行くように見えた。そして、玄有が最後には、天に助けを求めるように手を伸ばしたまま水面下に、ゆっくりと沈んで消えてゆくのを見届けた熊太郎は、不思議な気持で辺りを見渡すが、もちろん、玄有が会話していたかのような幽霊の姿など、どこにも見えない。

「この山寺での出来事は、ぜんぶ夢か幻か……」

熊太郎は、そう呟き、しばらく身動きを止めていたが、

「まさか、俺の黒岩家の大将の話も、夢と消えやしないだろうな」

と慌てて刀を鞘に収めると、傾いた陽の光を浴びながら、本堂の方へ戻って行った。

誰もいなくなった滝の上では、弱まった夏の陽射しの中に、陽炎の如く揺らめいている亡霊の安明が、己の虚しかった生涯に涙を流しながら、滝壺を見下ろしていた。

 

 開いたままの裏口から差し込んで来る弱い陽の光に照らされた本堂内にも、滝の轟音が届いている。その音の洪水の中に、人の絶叫が、ほんのわずかの間、微かに聞こえていたが、すぐに何事も無かったかのように滝の落水の反復的な音に戻った。

 耳を澄ますようにして居た楓が、露姫の横顔を仰ぎ見て話しかけた。

「露姫さま。今の、滝の音に紛れた悲鳴を聞かれましたか。あれは、玄有和尚の断末魔の叫びに違い有りません」

「そのようですね」

 露姫は少し安心した顔を見せたが、すぐに跪いて、側にいる弟の顔を覗き込み、

「鶴丸。影虎は今どこにいるの?」

と問い掛けた。

 鶴丸が、自身の背後を見上げると、安明の亡霊が、すっと煙のように現われて、そして、鶴丸の肩に優しく手を添えた。

 露姫は、鶴丸の視線の先を眼で追うが、漂う埃や塵、飛び交う虫の他には何も見えずに、困惑の表情を浮かべた。

 手を伸ばせば、触れられるほどに近い露姫の若く麗しい顔を、安明は見つめることしかできない。虚しく宙を彷徨う露姫の魅惑的な眼差しを、真正面に捉えることはできても、こちらの姿が見えず、声も聞こえていない愛しい人には、自分の胸の内に湧き起こる何の感情も伝えることができない。

 本堂の裏口から、大きな足音を踏み鳴らして、息を弾ませた熊太郎が、本堂内に戻って来た。勝ち誇ったような顔をして、濁声を張り上げ、

「たしかに、あの色ぼけ坊主は、この俺が退治したぞ。あとは、露姫と若殿を黒岩家の里まで連れて行けばいい訳だが、さて、どこへ向かえばいいのだ?」

と露姫に問い掛けた。

「…………」

 露姫が返答に困っていると、楓が直ぐに横から助け舟を出した。

「私が、御守りして参りました鶴丸さまが、黒岩家秘伝の書を携えて御出でございます。その巻物の中に、黒岩家の秘密の里の在りかも、きっと書いてあるはずです。皆で何とかして解読いたしましょう」

 熊太郎は満足げに、

「よし、それならば、賊軍の追手が迫っているかも知れないし、取りあえず母屋と納屋で必要な物を調達し、直ぐに、この山寺を出立するぞ」

と勢い込んでいる。

 露姫は再び鶴丸の顔を覗き込み、尋ねた。

「私には、どうしても影虎の魂の姿が見えない。生きている時はもちろん、死んだ後、霊魂と成ってまで、私たち姉弟を守ろうとしている、あの忠義心の厚い武士に、一言感謝の言葉を掛けたいのに……。鶴丸、お前には今も影虎の魂が見えているのですか?」

鶴丸は、ふと自分の肩を見た。そこにはもう安明の手が無い。今度は振り返って、辺りを見回すが、安明の亡霊の姿は、どこにも見えなかった。

屈んでいた露姫は立ち上がり、鶴丸の小さく寂しそうな背中に向かって、

「鶴丸。影虎は、どこにいるの?」

と問い掛けた。

「……いない」

 鶴丸は、ぽつりと呟いた。

「……もう見えないの?」

「…………」

鶴丸は、露姫の方を振り向いて、首を横に振った。

これを見ていた熊太郎が苛立って、

「こんな真っ昼間に、幽霊なんて初めから見える訳が無いじゃねえか。まったく、この暑さで、みんな頭が一時どうかしてたんだ。さあ、急がないと敵に捕まるぞ」

楓が、本堂正面の扉を開いた。

「そうです、露姫さま。さあ早く参りましょう」

熊太郎と楓は、本堂から出て行った。

外は斜陽で、淡い朱色に染まっている。

露姫は感慨深げに、

「……影虎。勇敢な武士であり、私にとっては最良の従者であった……。ただ……、黒岩家全体のことよりも、私の身一つに対して多少、執心し過ぎていて、思い詰めたように熱を持った瞳が、何を考えているのか分から無いようなところもあった……」

と、独り言を口にしながら本堂を出て行った。

小さな鶴丸は、広い本堂の中で一人、床板に長い影を引きながら、ぽつんと立っていた。つい先程までは対話していたのに、もう二度と影虎の姿を目にしたり、声を耳にすることができそうに無いのは、どうしてなのだろう、と不思議そうに、まだ本堂の中を見回している。

「鶴丸」

 姉から呼び掛けられた弟は、ようやく本堂を出て、燃えるような夕焼けの光の中、待っていた姉と手を繋ぎ、本堂の階段を下りて行った。

 

古い山寺の側を流れる滝の水流や、滝の落ち際の水飛沫は、夕陽に照り映えて黄金色に輝いている。しかし、断崖に囲まれた滝壺の辺りには、早くも夕闇が迫っていた。

 

――私は、影虎から安明に戒名させられ、最後には玄有に唆されて(そそのかされて)、自ら滝に身を投げてしまった。それも含め、全ては、私の前世と現世での行いが悪く、因果応報と言う事なのだろう。滝壺へ沈んで行くときに、私は全ての記憶を失ったようだった。しかし、私の魂は、この世に心残りがあったのだ……。

 

 滝壺の水中の蒼い世界は、暗黒の底へと続いている。まだ、水中の浅いところを漂っていた玄有の亡骸が、ゆっくりと滝壺の底へ向かって沈んで行く。

 

――玄有を成敗するために、私の怨念が、鶴丸や熊太郎を、あの寺へ引き寄せた。そして、見事に仇を討ち果たした。その他に、後ろ髪を引かれるような、俗世への未練が無いとは言えない。……露姫さまへの思い。決して報われることのない恋だった……。たった一度でいい、露姫さまには、従者としてでは無く、男としての私に、振り向いて欲しかった……。しかし、あれで私は、すべての未練を断ち切り、成仏するより他、仕方が無かった。

 

 玄有の亡骸が、ゆっくりと暗黒の水の中を漂い下りて来て、滝壺の底へ舞い降りた。

微かに蒼い暗黒の水中で、玄有の骸の、ゆらゆらと揺れ動いている影を見つめているのは、滝壺の底に転がっている安明の骸骨ただ一つ。