コストコに行って来ました
ずっと奥さんと、いつか行ってみたいねって言ってたのですが、
ついに早起きして行ってまいりました
まず、会員登録が厳重でビックリ。
写真をパチリ、身分証明書提出、などなど、
お店に入るだけなのに、これからお買い物をこっちがするのに、お店に入る前から色々取られちゃって笑、
お買い物させていただく気分になってしまいます
というのは、冗談ですけれども、まぁ考えてみれば、卸問屋的な感じなわけですから、
築地の朝のセリに素人が入れないのと一緒でして、
あのキャップに載せているナンバープレートの取得、的な感じだと思えば、まぁむしろ手軽なのかも。。
というわけで、ようやく入れたコストコですが、入っていきなりビックリっ
iPodが、山積みで売ってます…
DSが山積みで売ってます…
パソコンやら、携帯がボコボコ売られています…
一体ナンなんだココは…
カルチャーショック。。
続いて、フードプロセッサーに、巨大なお菓子たち。。
いろんなモノがカラフルだし、次から次へと想像もしないようなモノが出てくるので、
すごく
楽しい
家具に大工道具、家電に文房具、衣類の隣には食料、その向こうには洗剤や洗面用具、といった具合で
本当にいろんなモノが十把一絡げに売られています。。
何せ初めてなものですから、まったくの無知なわけですけれども、
これがまた、意外に名の知れたブランド(メーカー)のモノだったりするんですよね。。
それが、山積みに、ほこりかぶって売られている。
…。
改めて思う。
ブランド、ってなんだろうか。
ということで、
調べてみた。
ブランド:(一部略)結果として消費者の中で当該財サービスに対して出来上がるイメージ総体。
そうね。
ブランディングというくらいで、イメージなんですよね。。
その企業側がもともとは作っていかなければいけないはずのイメージを
こんな風に商品を売るということは、一体どういうことなんだろうと考えてしまいます。
たとえば、自分だったらどうか。
・高級レストランのドコドコのディナーに行ってみたい
・高級ブランドのナニソレのお財布が欲しい
なんて願望があったとする。
(誤解のないように書きますが、高級なモノがよいと言っているのではなく、
特別なお買い物という意味での一例です)
まったく同じシェフが作ったディナー(商品)だとしても、
それを自宅で食べるのと、
その高級レストランでおしゃれをしてパートナーと一緒に食べるのとでは
味は絶対に違うと思うのです。
まったく同じお財布でも、
それをドンキ○ーテでコレ下さいって買って、ビニールの袋に入れられて「ハイ」って渡されるのと、
ドアボーイに扉を開けてもらって、丁寧な接客をしてもらって、
お店の外までお見送りしていただくのとでは、喜びが違うと思うのです。
人は、それをくだらないというのかもしれませんし、
そういうことに価値を見出さない人もいるからこそ、それはそれで成り立っているのだと思うのですが
ボクは、やっぱりお買い物って、その時間・空間まで全部含めてのお買い物だと思っています。
ですから、同じモノはモノでも、それにまつわるすべてのコトがお買い物には含まれているのです。
そんなわけで、コストコでは、物質主義とまではいいませんけれども、
お買い物の中に占める割合として、あまりにも「流通」ということが全面に感じられてしまい、
やや気分が下がってしまいました。。
とはいえ、やっぱり便利は便利だ。
そこにまたジレンマがあります。
大量生産で、大量購入することで消費者は、流通のある部分をショートカットできるので、
安く手に入れられるというメリットがある。
その一方で、そういったお店が増えてくれば、小さな規模のお店は当然苦しくなってくるわけで、
そういったお店がなくなってしまっては、
さきほども言ったような、「時間」や「空間」までもをお買い物として楽しむ人は、
たとえばおせんべいを買うにも「これとこれを1枚ずつ」みたいなお買い物ができなくなってしまう。
どちらがいい悪いではないけれども、いいバランスでいてもらわないと、困ってしまいます。
郊外の量販店は便利だけど、商店街がなくなっては、街というものは一体どうなってしまうのだろう。
ひいては、街並みという言葉は、どこへ行ってしまうのだろう。
世の中で言えば、合理的なモノを好む部類に自分は入りますし、シロクロはっきりさせることも
わりと嫌いな方ではないのですけれども、
「便利」ということは、必ずしもイコールでGOODではないのだと感じてしまう自分に少し
驚き、戸惑いました。
そして、改めて、めんどくせ-ヤツだと思いました。
奥さん、いつもめんどくさがらずにいてくれてありがとう
そして、おでかけしたのにテンション下がってごめんなさいね笑