美穂子はこの頃、楽しかった。
夜のアルバイトを始めてまだ1ヶ月も経っていなかったが、大体の仕事の流れはつかめたつもりでいた。
美穂子は日中は、繊維業界の中の小さな会社で事務執(と)っていた。
セールスの男性が4人くらいいて、美穂子と、もう一人の事務員に伝票を回してよこす。
美穂子の毎日は彼らに茶を入れてやったり、電話で注文を聞いたりの仕事内容だった。ミスさえしなければ居心地の悪くはない会社だと思っていた。小さい会社だが給料だってそこそこだと思ってはいた。
でも、何かつまらない。
今年、入社1年目だがこのまま何の変哲もない会社での生活を送っていってそれでいいのだろうかと美穂子は疑問を持ち始めたのだった。
セールスの男性たちは、家庭持ちが殆どだった。
美穂子から言わせるとセールスの男性も、なかなか大変なんだろうなと思う。
実績が上がらない、数字が目標までいかなかったと専務にハッパをかけられて、お得意様にしかられたと、美穂子たち事務員に愚痴を聞いてもらう。
美穂子は何時も愚痴の聞き役に徹していたが、虚しいというのが本音だった。
家庭に帰って奥さんなどに愚痴を聞いてはもらえないのだろうかと不思議に思う。
そういう男性たちを職場でいつも見ていた。男性は大変なんだなぁと心から思っていた。
そうは思っても、なんだか夢も何もないように思えた。
夢も何もない男性と結婚してどうなるんだろう。
結婚したとして何も資格もない美穂子は社会から隔離されてしまうのだろう。
先が見えているような気がして、結婚そのものにさえ魅力を感じてはいなかった。
そんなことになるのはいやだと漠然と考えていた。
そんなとき、姉の友人がやっているスナックの手伝いをしてみないかと、誘われた。
少しお金を貯めて、手に職をつけるのもいいのではないかと姉は言った。
美穂子は、夜お客の相手をするのは、あまりいい気持ちがしなかったから初めのうちは断っていた。
しかし、どうしても人手が足りない、遅くても23時まではうちに帰すという約束で手伝うことに決めた。
初めはイヤイヤだったのに、一週間もすると意外とその仕事は自分に合っているのではないかと思い始めた。
美穂子は昼、会社にいると殆ど目立たない女性だった。
自分を出さないことが、みんなとうまくやる秘訣だくらいに思っていた。
だから、会社の人間は美穂子は、物静かな控えめな女性だと認識していたはずだ。
たった一ヶ月しか経っていないのに、美穂子が目当てで来る客も、2,3いるくらいだった。
美穂子の雇い人は夫婦者だった。姉の大学時代の同級生夫婦だった。
そのせいか親友の妹と言うことで、かわいがられ大切に扱われた。
美穂子は調理場にも入る。
簡単な料理は出来たし、つまみは乾き物などを盛り付けるなど単純なものも多かったから、何でもやった。
その仕事一つ一つも楽しかったが、お客との会話も、楽しく感じるのだった。
客筋もよく、酔って、よからぬことをしようとする不届き者もいなかった。
美穂子はこの頃たのしみなことがあった。
ここ2週間ばかり、何度か一人でやってくるお客がいた。
その人が始めて店に来た頃はかなり遅い時間…美穂子が帰る23時に近い頃に来ることが多かった。
それが、この頃は21時くらいには店に現れるようになった。
初めは、何か話しかけても短い返事しか返ってこなかった。
冷たく見える横顔は、何か人生に冷めているようにも感じる。
酒を呑みに来るわけではないようだ。
夕食なのだろう。“ご飯と、おかずを見繕って”と頼む。
それにしても遅い食事だ。
「お客さん。この頃早いですね。」
美穂子は聞いてみた。
「あぁ・・・今までずっと仕事がつまっていたからね。いま、ようやく落ち着いてきましたよ。この時間に食事できるなんて夢のようですよ。」
この客にしては今日はなかなか饒舌だった。
「会社が近いんですか?それとも。」
ママの由佳が横槍を入れる。
「美穂ちゃん、失礼ですよ。そんなに根ほり葉ほり…」
「あ、いやいいんですよ。僕のうちが近いんですよ。」
この客に関心が大有りの美穂子はこんなささやかな会話でも、天にものぼる気持だった。
(この近くなんだ。)
美穂子は、うれしかった。
つまらなかった人生に、色づきが見えたような気がした。
その色は薄いピンクなのかも知れない。或いは、若草色のイメージか。
この話を持ってきた姉に感謝するべきなのかも知れないと美穂子は思った。
自然と、美穂子は丁寧に丁寧に食器を洗っていた。
この私が洗った食器を、この人がまた使うかも知れないなどと考えながら。
今日はここまで 続く
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