人文学的な悲劇について考える。


ここ数年、映画やテレビドラマにおいて、「余命数ヶ月」という設定のドラマが多いようだ。「余命数ヶ月」という設定は、単なる不遇の死よりもドラマティックである。その死に至るまでの当人の心情や、近親者との語らいなどにおいて、さまざまな人間ドラマが存在する。


ただ、私は、個人的には、この手の設定にはデジャヴを覚える。自分が小さい頃、そういった設定の映画やテレビドラマがよく作られていたからだ。しかし、’80年代のバブルの頃になると、そういったドラマは作られなくなった。あるいは、作られても形骸化したものに過ぎなかった。それが、ここ数年になって、ふたたびよく作られるようになったようである。しかし、現代の社会において、どうもこの設定はあまりなじまないような気がする。


ウィトゲンシュタインは言っている。


「悲劇というものは、いつもあの言葉ではじめることができるだろう。『もしも、・・・・・・でなかったなら、なにも起きなかっただろう』。

(もしも彼の服の端が機械に巻きこまれなかったら?)」(ウィトゲンシュタイン 丘沢静也訳)


すなわち、悲劇には不運がなければならない。


人間にとって、最大の悲劇は不慮の死である。そして、人が死に至る原因には、先天的なものと後天的なものがあり、この両者では不運の意味合いが異なる。


かつての社会においては、この後天的な原因で死に至ることが珍しくなかった。例えば、作曲家のチャイコフスキーはコップ一杯の生水を飲んでしまったがために、コレラにかかり、亡くなってしまった(彼の死因には諸説ある)。この話を聞くと、我々は、「彼がコップ一杯の水を飲みさえしなければ、彼は死なずにすんだのに。また、そうでなければ、彼はもっといろいろな名作を作ってくれただろうに」と考える。


今日の社会においては、上のような判断ミスから死に至るような不運な病は多くない。


例えば、ある主人公が、ある日、悪性のがんが見つかって、余命数ヶ月と診断されても、そこには、人為による「たら、れば」がなく、上のチャイコフスキーの場合のような後悔する不運さがない。(なお、大腸がんなどの場合、内視鏡検診による早期の発見があれば、存命率は非常に高くなるそうだが、その検診をしなかったために大腸がんになった場合も、上のような場合とは状況が異なる。)あるいは、あるヘビースモーカーが長年の喫煙から肺がんになった場合においても、彼がタバコを吸いすぎるとがんになるリスクがあることを知りながら、タバコを多量に吸っていたことを考えると、やはりチャイコフスキーの場合のような不運さが欠けている。


この点に気が付かないで、昔の作家が日常的な一こまとして描いていた結核による近親者の死のような話を、現代のがんによるサラリーマンのお父さんの死に置き換えても、不自然な印象をぬぐうことは出来ないのではないだろうか。


結局、今日のテレビドラマなどにおける不治の病という設定は、余命数ヶ月というSF的なプロットを実現するための小道具に過ぎないのだろう。私は、「余命数ヶ月」という設定は、かつての天然痘、結核、ペスト、コレラのような感染症による不遇の死が身近にあった時代においてあり得た話であると思う。「余命数ヶ月」といったお話を書くのが悪いとは言わないが、せめて時代設定などを相応のものにするべきではないだろうか。あるいは、仮に鳥インフルエンザのような現在の感染症を描いても、ただのパニック映画になってしまうだけだろう。


悲劇そのものについて言えば、例えば、ある登場人物が極めて貧しかったり、体が弱かったりする設定が、その人の人間性に関わりがないという点において、人文学的な悲劇的要素にはならないように、単に天災による被害を描いただけの筋書きでは、人文学的な悲劇にはならない。実際、世界的な名作と呼ばれている悲劇に、地震や火事などの災害や一般的な病気による死を扱ったものはまずみられない。


結局、悲劇には2種類ある。


1.天災による悲劇
2.人災による悲劇


これは、次のように言い換えられる。


1’.天然の悲劇(自然が作り出す悲劇)
2’.人工の悲劇(人間が作り出す悲劇)


ここで、天然の悲劇とは、自然災害などからもたらされる悲劇である。この場合、真の作家は自然であって、これを模した話を作家が想像を膨らませて創作にしても仕方がないのではないだろうか。近年、大規模な災害を題材にした映画などが作られることが多いが、いずれも人文学的な名作足りえていないようだ。


別の視点で言えば、悲劇は以下の2種類に分けることも出来る。


Ⅰ.人間がこうむる悲劇
Ⅱ.人間が作り出す悲劇


人文学における悲劇は、Ⅱ.でなければならない。Ⅰ.とⅡ.を見分ける基準は、善悪はともかくとして、悲劇を作り出す登場人物がいるかどうかである。





天然痘
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%84%B6%E7%97%98
結核
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E6%A0%B8
>現在でも日本や欧米を含む世界中に分布しており、毎年300万人が結核により命を落としている。
ペスト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%B9%E3%83%88
コレラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%A9



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