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【小説】僕の好きな先生
中学の頃、好きな先生がいた。ぼさぼさの頭にむさくるしい格好をした男の先生で、数学を教えていた。そのルックスから女子生徒にはまったく人気がなかった。
その頃、僕は音楽に目覚め始めたばかりの頃だった。当時は’80年代の中頃で、世間では商業主義的なポップスばかりが流行っていたが、僕はそういったものに一向に興味がなく、最初から’60年代から’70年代前半のロック音楽に夢中になっていた。
今日、当時の音楽はCDで豊富にカタログ化され、たくさんの解説本も出ているが、その頃は、そういったことに関する情報が極端に少なかった。
当時、僕は、毎月、ミュージックマガジンと、中古レコード店と大型書店ぐらいにしか置いてなかったレコードコレクターズを立ち読みし、古本屋に通っては、昔のミュージック・ライフのバック・ナンバーを探していた。そんな中、少しでも当時の情報を得ようと、僕は、当時、青春時代を過ごした世代の先生を片っ端から捉まえては、ロック談義を吹っかけていた。しかし、良識派の先生たちの口から出てくる話はサイモンとガーファンクルやビージーズ、カーペンターズ、かぐや姫ぐらいのものだった。そんな中、その先生は違った。僕が当時覚えたばかりのミュージシャンやバンドの名前や古いヒット曲をいくらあげても、その先生に知らないものはないのだった。有名なものから無名なものまで何でも詳しかった。
僕はその先生に一発で夢中になり、休憩時間になると、職員室に押しかけては、いろんな話をするようになった。
「先生、最近、車のCMに使われとるビージーズの曲知っとる?」
僕は職員室でカナリアのように歌い始めた。
「ああ、聞いたことあるのう。何じゃったかのう。ああ、"First of May"。『若葉の頃』じゃろ。」
その頃、僕は毎日が若葉の頃だった。
先生の方も、僕を気に入ってくれているのか、あるいは誰も話を聞いてくれなかったのか、廊下で僕を見かけると必ず話しかけてきた。
「よう、ゆう。’60年代のバンドでパラマウンツいうておったんじゃが、知っとるか。」
パラマウンツは「青い影」で有名なプロコルハルムの前身である。いつもそんな風に話を切り出すのだった。僕には、その話がひとつひとつ面白くてたまらなかった。歳も背丈も違う二人は廊下でよく話し込んでいた。
あるときに、先生がカセットテープを持って来いというので、余っていたマクセルのクロムのテープを持っていくと、次の日、先生は以前FMでエアチェックしていた膨大なテープから、60年代の音楽集を作って贈ってくれた。カセットケースとカセットレーベルの間には先生の手書きの曲目リストが挟まれていた。
僕は負けずに先生にテープを一本持ってきてもらった。当時、僕は、FM番組「サントリー・サウンド・マーケット」を聞いていた。この番組では、当時、DJをナイアガラレーベルでおなじみのシリア・ポールが勤めており、萩原健太などの音楽評論家が音楽構成を勤めていた。あるとき、「ロック・サーティ・イヤーズ」という企画が連夜、放送されていた。ロックが生まれた’55年から’86年初頭までの30年の歴史を1日1年のペースで振り返るというものだった。僕はその番組をせっせと録音しており、その中から好きな曲を集めて先生に贈った。もちろん、カセットケースとカセットレーベルの間には、僕の手書きの曲目リストを添えて。
それにしても、歳月が経つのは早いもので、いつの間にか、あれから20年の歳月が流れ、ロックの歴史は30年から50年になってしまった。
その頃から、僕は、先生のことが好きなあまりに、授業中にあれやこれやと話しかけ、授業の妨げになっていた。そのうち、ある女子生徒が怒って叫んだ。
「アンタだけの授業じゃないんよ。」
するとみんながどっと笑った。誰もがそう感じていたのだろう。私は真っ赤になってうつむいた。
ある休憩時間、廊下で先生の怒鳴り声が聞こえた。驚いて覗いてみると、先生が学校一の不良と恐れられていた男と口論になっていた。おそらくはその男が煙草でも吸っていたのかもしれない。僕は先生がその男に殴られるのではないか、あるいは情けない態度でも見せるのではないかと、はらはらしながら見守っていたが、先生は一向にひるむことなく、その男を一括した。僕はその先生にそんな一面があると知らなかった。僕はますますその先生が好きになった。
その件に限らず、うちの中学は不良が多く、授業も荒れていた。ある日、男たちが先生の授業に遅れてきた。以前から続いていた遅刻に先生は怒って言った。
「お前ら、今度遅刻したやつは、教壇の前に立たせて、ビンタを食らわすど。遅れんなよ。」
僕はそのうち、彼らのうちの誰かがビンタを食らうことになるのだろうと、他人事のように高をくくっていた。
しかし、何故か、運悪く次の授業に遅刻したのは僕だった。すると、クラスの男子たちが騒ぎ始めた。
「先生、ビンタ、ビンタ。」
僕は背筋がぞっとした。僕はみんなの前で愛する先生にビンタをされてしまう。そして、まわりの男たちはそれを期待している。先生が僕を殴りにくいことを知っているからだった。
僕は席につくことが出来ず、教室の入り口に突っ立っていた。
先生は気まずそうに顔に手を当ててご自分の顔をぬぐった。
「先生、ビンタ、ビンタ。」
生徒たちの声はいっそう高まった。
しかし、先生は聞こえないかのように言った。
「次から気をつけえよ。」
すると、教室中の生徒たちから悲鳴が上がった。
「えーっ、先生、そりゃずるいよ。えこひいきじゃん。」
それに対して、先生は言った。
「今回のは最初から警告のつもりじゃった。次にやった奴はほんまにビンタするけえのう。」
そう言って、先生はこぶしで僕のおでこを軽くこつんと叩くと、席に着くように言った。
席に着くと、僕の隣に座っていた学校一の美少女が、いつもの大人びた声で話しかけてきた。
「愛されとるねぇ、ゆうちゃん。」
そう言って、彼女はにやりと笑った。
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【随筆】昔、僕はとてもけちだった。
昔、父さんが母さんとデイトした時
氷屋の前で父さんが言ったセリフ
私は外で待っていますから
あなただけ食べて来なさい
そんなおかしな父さんが
僕は困るけど好きだよ
同じ血が流れている
「父さんへの手紙」 作詞:早川義夫 より
僕は、小さい頃、上の早川さんのお父さんと同じセリフを言ったことがある。
小さい頃、僕のうちはけっこう貧乏だった。両親は、ともに母子家庭だった上に、日本人の父と朝鮮人の母が周囲の反対を押し切って、結婚式も挙げずに結婚してしまったものだから、その生活はとても厳しいものだった。
しかし、その両親が、ともにまったく贅沢を知らず、倹約家だったので、最低限の生活に問題はなかった。
また、その下で育った僕たちも、そのレベルの生活が普通のことだと思っていたし、特に贅沢を望んでいたわけではないので、子供として特に不満はなかった。
僕のお小遣いは、高校に上がるまで、毎月千円、1日に30円程度だったが、それでも特に困ることはなかった。
ただ、その頃の自分のことを振り返ってみて、とても残念に思うことがひとつある。それは、僕が、貧乏である以上にケチだったために、当時、多くの友達からのお誘いを断ってしまったことである。
小学校高学年の頃、僕は、それまであまり付き合いのなかったある級友とある漫画の話で息が合った。急に仲良くなった僕たちは、ある日、街の古本屋にその漫画を探しに行くことになった。
用件が終わって、帰り際、彼が
「面白いものがあるんだ。」
と言って、僕を誘った。彼は彼女をエスコートするように自信満々だった。
ついて行ってみると、そこは、ティーカップやメリーゴーランドなどがあるデパートの屋上だった。
そして、彼は言った。
「これに乗るのが面白いんだ。一緒に乗って遊ぼうよ。」
僕はそれを聞いて、一瞬迷って、断った。
「いや、いいよ。僕は乗らない。」
すると、彼が、
「どうして。」
と聞くので、
「乗りたくないから。」
と答えた。
しかし、本当はそうではなかった。手元にお金がなかったこともあるが、それ以上に、僕には遊具に乗るお金がもったいなく思えて仕方がなかったからだった。
だいたい、僕は小さい頃から、金額と同等の物が手元に残らないことにお金を使うのが嫌だった。別の言い方をすると、その場限りのことにお金を使うのがとても嫌だった。例えば、買い食いをしたり、ゲームセンターでお金を使ったりするのが嫌だった。
しかし、彼があんまりしつこく僕を誘うので、僕はついに上と同じセリフを言った。
「僕は乗らないから、君だけ乗るといいよ。」
すると、彼は彼でよほど乗りたかったのか、
「じゃあ僕だけ乗ってくるよ。」
と言って、ティーカップに乗った。
僕はその様子を外から見ていた。彼は一人でぐるぐる回っていた。彼は楽しそうに手を振ったりしていたが、多分楽しくなかっただろう。
その後、彼は2つぐらい遊具に乗ったが、そのうちつまらなさそうに帰ろうと言い出した。
そして、僕たちはそれぞれの家に帰った。
その後、彼と気まずくなることはなかったが、彼が僕をデパートの屋上に誘うことは二度となかった。
その当時、僕たちの間では釣りや漫画やガンダムのプラモデルが流行っていた。それで僕たちはよく釣りに行ったり、漫画の絵を書いたり、プラモデルを作ったりしていた。毎日がクリエイティブで、とても楽しかった。
それからしばらくして、任天堂がファミコンを発売した。私はこれを持っていなかった。当時の僕の金銭感覚では、とても買うようなものではなかった。
また、同じころから、ゲームセンターのテレビゲームが流行り始めた。
中学に入ってしばらくした頃、それまで一緒に遊んでた友人らが、だんだん釣りやプラモデルを止めて、ゲームセンターに行くようになった。彼らだけではなく、おそらくクラス中の男たちがいくつかのグループに分かれて、ゲームセンターに通っていた。
僕も、最初、しばしば誘われ、ついて行ったのだが、たいてい、ゲームをしないで、他の人がするのを黙って見ていた。しかし、何もしないというのもおかしいので、よくよく選んで、1、2回だけ何かのゲームをしてみた。お金はあっという間に消えてなくなった。なんだか親に悪いような気がした。
そのうち、僕は、放課後、彼らと付き合わなくなった。と言っても、決して仲が悪くなったわけではなく、学校では相変わらず仲良く遊んでいた。ただ、放課後一緒に遊ばなくなったのだった。僕は、ひまなときには、ひとりで、小学校の頃と変わらず、河口で蟹を取ったりして遊んでいた。
正直に告白するのだけれども、僕は、そのころ、同い年の友達がみんな子供に見えて仕方がなかった。
そのうち、僕はビートルズを知り、中古レコード屋に通うことを覚えた。それから、ストーンズ、Tレックスなどを聞くようになって、やがて戦前のブルースやバッファロースプリングフィールドなどの渋い音楽を聴き始めた。僕はこれらの中古レコードを買っては、当時のSONYやマクセルやAxiaなどのカセットテープに落として聞いていた。なお、今日、中古レコードを漁るのはかっこいい若者文化となっているようだが、これは’90年代以降の話ではないか。’80年代当時、中古レコード収集は、すくなくとも僕の地元では、若者のおしゃれな文化ではなかった。むしろ鉄道模型や切手収集の世界に近かった。中学生の僕はおじさんコレクターたちと情報を交換していた。時々、見ず知らずのおじさんに缶コーヒーをおごってもらったりした。
その頃から、僕は、だんだん周囲の子供たちと話が合わなくなった。僕は、昼休みになると、職員室に行って、先生とおしゃべりしていた。同級生と話をしているより、先生と話をしている方が面白かった。先生はみな物知りだった。
それから、高校に上がった。高校は公立高校にしてはわりと進学校だった。中学の頃と違って、ゲームセンターに溜まって、煙草やシンナーを吸ってそうな生徒はほとんどいなかった。
その高校においても、ときどき夕方お好み焼きやビリヤードに誘われることがあった。けれども、僕はたいてい断っていた。とにかくその場限りのことにお金を使いたくなかった。
中には、男女数人で食事に行ったりすることもあったようだが、僕には縁がなかった。
今、僕は、当時のことを振り返ってみて、ずいぶんもったいないことをしたものだなあと思う。僕はどこで何を間違えてしまったのだろうか。
僕は、今でも、ときどき学生の頃のことを夢に見る。たいてい僕だけ付き合いが悪くて、一人で過ごしている。知らぬ間に日が暮れて、気が付くと誰もいなくなってしまっている。そんな夢を今でもときどき見ることがある。
僕はもっと人付き合いにおいて妥協すればよかったのかもしれない。そう思うと、とても残念なのである。
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【随筆】ピアノのないピアニスト
小さい頃、僕はたくさんの友達と毎日楽しく遊んでいた。
しかし、いつ頃からだろうか。
知らないうちに、周りの人たちとの付き合いがうまくいかなくなってきた。
その理由も分からないうちに、青春時代が過ぎてしまった。
しかし、最近になってようやく分かってきた。
考えてみれば、僕が周りの人たちとの付き合いが上手くいかなくなった原因は、僕が10代の頃から考えごとにふけるようになったからだ。
10代の初めの頃、僕は考えごとにふけるようになった。
一人で考えごとをしていると楽しかった。
僕は、毎晩、思索の森を探検していた。
同じ頃、僕は思春期を迎えた。
僕はある女の子を好きになった。
その子と付き合えたらいいなあと思った。
おそらく、周りの男たちもみなそう思っていただろう。
その子は、ギタリストと付き合っていた。
結局のところ、特技のある男がもてるのではないかと思った。
では、僕の特技とは何か。
それは考えごとをすることだった。
しかし、この考えごとというのは、いくら考えても、本人が口にしない限り、他人にその成果は見せられない。
考えごとは夜寝ているときに見る夢に似ている。
どんなに美しい夢や楽しい夢を見ても、他人にそれを見せることは出来ない。
話して聞かせたところで、ああそうと言われるだけのことだろう。
僕はその女性が他の男性と楽しく付き合っているのを、遠くから見ているだけだった。
かわりに、僕は毎晩遅くまで布団の中で考えごとをしていた。
考えごとをすると、頭が冴えて、眠ることが出来なかった。
何時間も、布団の中をごろごろしていた。
20代になって、僕はある女性と付き合い、暮し始めた。
その頃、僕は毎日楽しかった。
一人で考えごとにふけっては、いろんなことに気付いたし、
彼女といるときには、彼女と楽しく過ごしていた。
しかし、今になって考えてみると、その頃、彼女は僕ほど面白くなかったかもしれない。
何故なら、僕がどんなことを考えても、彼女にはそれを知ることが出来なかったから。
僕と彼女はお休みの日にあちこちに出かけた。
出かけるときはいつも電車だった。
乗っている間、目的地につくまで、僕は考えごとをしていた。
だから退屈しなかった。
しかし、隣にいた彼女はずいぶん退屈だっただろう。
今考えると、申し訳ないことをした。
思うに、考えごとをする人は、ピアノのないピアニストに似ている。
ピアノのないピアニストは頭の中でピアノを弾く。
本人はそれでいいのだろうけれども、周りの人は誰もその演奏を聴いて感動することがない。
思えば、僕は10代の頃から、ずっとピアノのないピアニストだった。
僕はいつも頭の中でピアノを弾いていた。
好きな女の子を見つめているときも、彼女と二人で暮しているときも。
彼女も友人も家族も誰も僕のピアノの演奏を聞いたことがない。
ときどき、僕が突拍子もないことを言って、周囲を唖然とさせることがあったぐらいのものだ。
だから、周りの人たちから見れば、僕はただの変わり者でしかなかっただろう。
そんな僕が、ようやくひとつのピアノを手に入れた。
それがこのブログだ。
僕は、今日まで、25年間、頭の中で考えごとというピアノを演奏していた。
そして、今、ブログに向って、毎晩、演奏をしている。
初めて、他人の見ている前で。
想像がつかないのだけれども、最近、僕の演奏を、毎晩、聴きに来てくれる人たちがいる。
また、前からずっと愛読しています、とメッセージをくれる人たちもいる。
僕の演奏はまったくの我流だけれど、まるっきり音程の外れたものではないようだ。
考えてみると、僕は今まで人から応援されたことがなかった。
だから、この気持ちはこれまでにはなかったものだ。
今のところ、唯一残念なのは、読んでくれる人とお会いする機会がないことだ。
インターネットでは、こころで直接付き合うことが出来るが、逆に肉体を通しての付き合いが出来ない。
いつかお会いする機会でもあればよいと思うけれども。
この先、いつまで生きられるのか分からない。
何かの事故であっさり死んでしまうかもしれない。
いつか更新の途絶える日が来るだろう。
そのときまでに、書きたいことを書いておきたい。
そうしたら、死んでからも、読んでくれる人はいるだろうから。
虎が死んで皮を残すように、
ミュージシャンが死んで音源を残すように、
僕は自分の文章をこの世に記しておきたい。
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【散文】君しか僕の絵を描けないだろう
テーマ:散文
「考えているときは乞食、夢見ているときは神々」(ヘルダーリン)
数年前、美大出身の彼女はよく絵を描いていた。
ときどき、僕の絵を描いていた。他にモデルがいなかったから。
彼女が見せてくれる僕の顔は、いつも難しい顔をしていた。
「僕はいつもこんな顔をしているのか」と聞くと、彼女は「そうだ。あなたはいつもこんな顔をしている」といった。
またあるとき、彼女が見せてくれた絵を見ると、絵の中の僕は俯いて考え込んでいた。
「僕はいつもこんななのか」と聞くと、彼女は「そうだ。あなたはいつもこんなだ」といった。
その後も、彼女は僕の絵を書きつづけた。前からも、横からも、後ろからも、暑い日も、寒い日も。
絵の中の僕はいつもニーチェのように考え込んでいた。
思うにその頃の僕ときたら、はなはだしく考え込んでいた。
それからしばらくして、彼女はCGを描くようになり、とんと絵を描かなくなってしまった。
「この世で幸福以上のなにかを求める人は、幸福が彼の分け前とならなくても、不平を言ってはならない。」(エマソン)
僕はいつも幸福以上のなにかを求めていた。
毎晩、善意と欲望の入り混じった薄汚い夢を見ていた。
それは、この世から差別をなくし、すべての人を幸福にするものだと自ら信じていた。
かつて、僕の横ではいつも幸せが絵を描いていた。
幸せの描く絵の中には、いつも肘をついて考え込んでいる不幸がいた。
それが僕だった。
αちゃん、再就職おめでとう。
落ち着いたら、また僕の絵を描いてください。
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