【思索】正論を聞かされて僕らは育った。
テーマ:vol.1

2007-08-21 07:13:18
【思索】正論を聞かされて僕らは育った。




僕たちは小さい頃から正論を聞かされて育った。


平和は大切だ、差別はいけない、手を取り合って愛し合いましょう。


それらはいずれも常に正しく反論の余地もない。


僕たちは小さい頃から何が正しいのかを知っていた。


それはあらかじめ人生におけるテストの答案を知っているようなものだ。


それで満点をとったところで何になろう。


僕は、小さい頃、この正論に、いつもある種の胡散臭さを感じていた。


そのために、自分の人生において、本当の問題に突き当たったときに、正論を避けて通ろうとしていた。


しかし、結局のところ、僕は、それを避けて通ることが出来なかった。



人生において、正論はしばしば役に立たない。


僕たちが生きていて、個人的な問題に突き当たったときに、それが役に立つことはあまりないからだ。


そして、僕たちは正論とは違う、別のものを捜し求める。


もっと別のものがあるんじゃないかと。


しかし、それを探しに出かけた若者は、人生においてしばしば遭難する。



僕は改めて思うのだけれども、正論というものはやっぱり正しいものだ。


平和も、平等も、愛も、正しく、素晴らしいものだ。


であるのにもかかわらず、それが胡散臭く聞こえたり、胸に響かなかったりするのは何故だろう。


それは結局のところ、正論をあらわす言葉が陳腐化するからだ。


正論自体が陳腐化しているのではなくて、それを表す言葉が陳腐化しているのだ。


歌の歌詞で「どこまでも広がる青い空」なんて出てきたら、誰でもうんざりする。


実際に、どこまでも広がる青い空を見てうんざりする人はいないのに。


それと同じことだ。



陳腐化した正論は、塩味の抜けた塩に等しい。


それはもはや何の役にも立たず、捨てられ、人々から踏みつけられるだけだ。


(マタイによる福音書 5 13、マルコによる福音書 9 50、ルカによる福音書 14 34-35)



ところで、正論に対して、逆説というものが存在する。


世の中にはこの逆説を正論以上に愛し、求めている人たちがいる。


逆説好きの彼らは言う。


「正論はもはや死んだ。正論を取り壊せ。」


僕はそれは違うと思う。



逆説は何のためにあるのか?


それは、正論を廃止するためではなくて、完成させるためだ。


逆説は実は正論と矛盾しない。


正論と矛盾するように聞こえて矛盾しない言説。


それが逆説だ。



もし、ある逆説が正論と矛盾するのならば、結局のところその逆説は間違っている。


逆説好きな若者を喜ばせる逆説は、大抵の場合はニセ物だ。


それは正論以上に陳腐であるのが普通だ。


ただ、世間的に知られていないから新鮮に聞こえるに過ぎない。



真の逆説は、正論に新しい解釈を与え、陳腐化したその印象を蘇らせる。


だから、僕たちは真の逆説を聞いて、はっとする。


逆説とは正論の最新形にほかならない。


そして、それを聞いた人は、改めて、あるいは初めて、本来の正論を理解し、受け入れる。


なるほど、そう言うことだったのかと。



僕はそういう逆説、すなわち、新しい正論を書いていきたい。



「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」
Think not that I am come to destroy the law, or the prophets: I am not come to destroy, but to fulfil.
For verily I say unto you, Till heaven and earth pass, one jot or one tittle shall in no wise pass from the law, till all be fulfilled.
(マタイによる福音書 5 17-18)




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2007-09-06 22:38:14
【思索】後悔するのは誰なのか



あるところに、Aさんという人がいました。


Aさんが歩いていると、道端に百万円が落ちていました。


Aさんはその百万円を懐に納めて、家に帰ると、


それを警察に届けようか、ネコババしようか、と一晩中悩み続けました。


そして、悩み抜いた末に、結局、ネコババしました。



あるところに、Bさんという人がいました。


Bさんが歩いていると、道端に百万円が落ちていました。


Bさんはその百万円を懐に納めて、家に帰ると、


それを警察に届けようか、ネコババしようか、と一晩中悩み続けました。


そして、悩み抜いた末に、結局、警察に届け出ました。



その後、二人は大変後悔しました。


Aさんは、百万円欲しさに犯罪を働いてしまったことを後悔しました。


Bさんは、正直に届け出たことで百万円を手に入れ損ねたことを後悔しました。



弱い人間というのは、気の毒ですね。


悪いことをしても、善いことをしても、結局は後悔するのですから。


そして、仮に逆のことをしていたとしても、結局は後悔していたのでしょうから。



「良心の呵責にさいなまれる」という言い方がありますね。


Aさんの場合がまさにそれですが、


では、Bさんの場合はどうなるのでしょうか。


Aさんは悪いことをしなければよかったと後悔しているのですが、


それに対して、Bさんは悪いことをしておけばよかったと後悔しているのです。


しかし、その後悔する様子を見てみると、実は、AさんとBさんには何の違いも見出せません。


そう考えてみると、実は、呵責自体に良し悪しはないのかもしれませんね。



ところで、上の例とは逆の例もありますね。


ある日、Cさんは、百万円を拾って、ネコババし、何の後悔も覚えませんでした。


ある日、Dさんは、百万円を拾って、警察に届け出て、何の後悔も覚えませんでした。


上の例において、CさんとDさんは彼らと同じことをしたわけですが、ともに後悔を覚えませんでした。


それはおそらく彼らの心が、善悪に関係なく、強かったからでしょうね。



ところで、上の心の弱い人と心の強い人の間には大きな違いがありますね。


それは、その人の心が強ければ強いほど、逆のことをすることはないだろうということです。


心の強い悪人は拾った百万円を決して警察に届け出ようとは思わないでしょうし、


心の強い善人は拾った百万円を決してネコババしようとは思わないでしょう。


それは彼らにとって、疑う余地のないことでしょう。



要するに、人間の心の善悪と強弱は別物なんでしょうね。



そして、悪い人が苦しむのではなくて、弱い人が苦しむのでしょうね。


そう考えてみると、人間にはやらなければならないことが2つありますね。


より善く生きること。


より強く生きること。



強くなろうとしないで、より善く生きることばかり考えていたら、その人の人生は後悔が絶えないでしょう。


経験者が語るのですから、間違いありません。


ええ。(´;ω;`)





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2007-07-24 23:27:20
【思索】ペシミストというもの その2



おとつい、前向き、ポジティブということについて書いたね。
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10040707735.html


で、昨日、逆のことについても書きたいっちゅて書いたね。
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10040833468.html


前向き、ポジティブの逆。つまりは、後向き、ネガティブじゃね。


このネガティブな姿勢に感傷的な気持ちが絡んだもんが、いわゆるペシミズムっちゅうやつじゃろうか。



ペシミズム。


要するに悲観論であって、この考えにとらわれておる人が、いわゆるペシミストじゃね。
(ペシミスト・・・物事を悲観的に考える傾向の人。悲観論者。厭世家。)


こういう人について、ヒルティが以下のように言うておるね(*)。


「ペシミストたちを言葉で転向させようとして、無駄な骨を折らないがよい。彼らはそれに反駁してくるし、またそのような言葉の争いになかなか負かされず、その上、出来れば相手の人びとから人生の喜びを奪うことが、ペシミストたちに特別な満足を与えるものだ。なぜなら、人間は不満の中でも、やはり仲間が欲しいからである。できれば、彼らによりよい生活を見せてやりなさい、そして彼らとの言い争いはやめるがよい。人生についての彼らの見解は、彼ら自身にとっても世の中全体にとっても有益ではないが、でも、そのような考え方もありうることだけは、あっさり認めてやりなさい。また、彼らから離れることの出来ない"義務"があるならば、辛抱づよく彼らを我慢しなさい。彼らの考えを変えうるのは神だけであって、われわれにできることではない。」


これは、ペシミストについての、ペシミストではない人から見た見方じゃね。



わしは、ペシミストと呼ばれる人が救われる方法は、上のヒルティのように、ペシミストについて客観的な見方が出来るようになることじゃなかろうかって思うんじゃ。なんでかいうたら、ペシミストを客観的に見られるのは、ペシミストじゃない人じゃろうから。実際、もし、あるペシミストが、上のような見方が出来るんじゃたら、そのひとはもうペシミストじゃなかろう。ほいじゃが、こういう見方が出来んのが、ペシミストなんじゃのう。


ところで、ヒルティも言うとるように、ペシミストの中には議論を挑んでくるもんもおるよのう。わしもこういうブログを書いておると、ときどきペシミストらしい人から議論を挑まれたりすることがあるわのう。ほいじゃけど、わしも、やっぱり、そういう人と「いかに人間は幸福になれないか」について議論するのは面倒じゃのう。そがあな議論しても、わしには、失うもんはあっても、得るもんは何もないんじゃけんのう。


ほいじゃけど、なんでペシミストがそがあな議論をぶつけてくるんかっちゅうたら、その人なりに救いを求めておるからなんじゃろうのう。また、その人が、それをある人にぶつけるのは、その人なりにその人のことを見込んでおるからなんじゃろうのう。ほいじゃけん、もし、あるペシミストの人が、わしに議論をぶつけてくるんじゃったら、わしもその人に何かを言うてやろうかと思うんじゃ。その人はわしのことを見込んでくれておるのかもしれんから。


ほいじゃけど、個人的な経験から言うたら、こういう場合において、その人に何かしら言うたところで、結局のところ、その人はこちらの言葉を逆手にとるばかりで、言うことを聞いちゃくれんわのう。



それよりも、わしは、その人に、わしの楽しい暮らしを見せたげたほうがええんかのう。


わしの暮らしは楽しいんじゃ。(^ω^)


ほいでのう、その楽しさには特別な資格は要らんのじゃ。例えば、湘南の海岸を裸足で歩いておるだけで、わしは十分楽しいんじゃけん。それぐらいのことじゃったら、誰でも出来るじゃろ。


いろいろ言うたけれども、結局のところ、わしが、ペシミストの人に言うてあげられるのは以下のことなんじゃのう。


他人の幸福を正視する勇気を持ちんさい。


*・・・【哲学】ペシミストというもの
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10036979717.html




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2007-07-23 22:02:04
【思索】寓話は人の役に立つんじゃろうか



寓話いうてあるのう。あれって人の役に立つんじゃろうか。


例えば、「ありときりぎりす」いうのがあるのう。


きりぎりすが遊んで暮らしておるうちに、ありさんたちはせっせと働いておったんじゃけど、冬が来たら食べるもんがなあなってから、たくわえのないきりぎりすが飢え死にしたっちゅう話じゃけど。


このお話の趣旨は、幼稚園の先生に言わせると、きりぎりすタイプの人に対して、怠けた生き方を戒めておるっちゅうことになるんじゃろうけど、実際はどうなんじゃろうのう。


わしゃ、どうも、この寓話は、ありんこタイプの人が自分たちの生き方を自己肯定するのに利用するばっかりで、ありんこタイプの人のためにも、きりぎりすタイプの人のためにもなっておらんのじゃなかろうかって思ったりするんじゃが。



まあ、このお話は、ありんこタイプの人にとっては、痛快なお話なんじゃろうけれども、作者の人(イソップ)は必ずしもそういう意図で書いたわけではないんじゃないかのうっちゅうて思うんじゃ。


結論を言うてしまうと、きりぎりすタイプの人がこの寓話を読んで、”喜んで”悔い改めるっちゅうことがあるんじゃろうか。わしゃ、必ずしもそうではないような気がするんじゃがのう。


まあ、読む人自身がちゃんと読んどれば、そがあなうこともないんじゃろうけれどものう。(´・ω・`)



上のようなことを踏まえて、わしゃ、例えば、こういうお話を考えるわけじゃ。


まあ、聞いてみんさい。



あるところにのう、小学校があってからのう、その中のあるクラスに二人の男の子がおったんじゃのう。


ひとりはそそっかしい鈴木君で、もうひとりはおっとりした佐藤君じゃったんじゃ。


その二人が、ある放課後、掃除をしておったんじゃのう。


で、鈴木君がてきぱきとしておるのに対して、佐藤君はもたもたしておったんじゃのう。


それで、先生が言うたんじゃ。


「みんな、さっさと掃除せえよ。もたもたしとったらいけんど。」


このとき、先生は佐藤君に言うておったんじゃのう。


ほいじゃが、これを横で聞いた鈴木君はこう思うたんじゃ。


「ほうじゃあ。先生の言うとおりじゃなあか。人間、のろのろしておっちゃいけんのじゃ。」


鈴木君はそう考えて、もっとせかせかし始めたんじゃと。


ところが、そうしたら、今度は鈴木君が失敗をしてしもうたんじゃ。


あわてて棚を拭きよって、花瓶を落として割ってしもうたんじゃのう。


ほいで、先生が言うたそうなんじゃ。


「そがあにせかせかしとったらいけんど。ゆっくりしんさいや。」


ほいじゃが、今度はそれを聞いた佐藤君がこう思うたんじゃと。


「ほうじゃあ。先生の言うとおりじゃなあか。人間、せかせかしておっちゃいけんのじゃ。」


ほいで、佐藤君はよけいにのろのろするようになってしもうたんじゃと。



まあ、そのように、人間っちゅうのは、他人のアドバイスを自分に都合のええように聞いてしまうことがあるんじゃのう。


なんで、こんなことを言うんかっちゅうとのう、昨日、わしは前向きっちゅうことについて書いたんじゃのう。


【思索】何に対して前向きに取り組んだらええんじゃろうか
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10040707735.html


ほいじゃが、あとでちょっと心配になってしもうたんじゃ。


もしかしたら、わしは一方的なことを話してしもうたんじゃないかのうって。


わしゃ、思うんじゃが、人間ちゅうもんは、大体一長一短あるけんのう。


それぞれ、ええところ、悪いところがあるもんなんじゃ。


ほいじゃけん、バランスをとって、逆の話もしておいたほうがええんじゃないかっちゅうて思うたわけなんじゃ。


で、その話をしようかっちゅうて思うたんじゃけど、前置きが長くなってしもうたけん、続きを書く時間がなあなってしもうたわ。


失敗じゃ。(`ω′)!



ほいじゃけん、続きはまた今度じゃ。



ほいじゃあ、またの。(`ω′)!




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2007-07-26 22:01:23
【思索】そらあ、心の遠視じゃなかろうか。



ドストエフスキーは、「カラマーゾフの兄弟」の中で、ある一人の医者の言葉として、以下のように書いていますね。


「一般人類を愛することが深ければ深いほど、個々の人間を愛することが少うなる。 」(米川正夫訳)


人類好きを自認する人が、実は人間嫌いである。これはあるかもしれない。人間は視点が高くなり過ぎると、人間を見る目が霞んでしまうのかもしれない。「私は世のため人のために頑張ているのだ。お間にかまっている暇はないのだ。」という感じだろうか。こんな人が近くにいたら、何やらヒステリックな雷が落ちそうである。


それは心の遠視ではないだろうか。



ところで、世の中には、これとは正反対の人もいるようだ。つまり、個々の人間は好きなのだけれども、人類には興味のないという人たちだ。この人らは、世間以外のこと、つまり友人や家族以外の人たちのことには興味がないらしい。例えば、友人がスキーで骨折したというと、我がことのように心配して見舞いに駆けつけるのにもかかわらず、アフリカの内戦で難民が1万人虐殺されたという新聞記事を読んでも、眉ひとつ動かさないような人たちだ。


それは心の近視ではないだろうか。


「世間」が「世の中」のすべてではないのだが。



こういう人について心配することがもうひとつある。


それは、以下のことである。


「身内に対する親切は、しばしば身内以外の人に対する不親切になる。」


個人的なことだが、この間、こんなことがあった。私が、食堂で、水を汲もうと思って、並んでいたときのことである。給湯器が2台あり、右には2人、左には1人並んでいた。だから、私は、左に並んだ。ところが、いつまでたっても、前の人が水を汲み終わらないのである。これはどうしたのだろうかと思ったら、前の人が仲間の分まで汲んでいたのである。それも、5、6杯ぐらい。私は、うしろでぼうっと待っていた。


キリストが言っていますね。


「自分を愛してくれるもんを愛したけえいうて、あんたらにどがあな恵みがあるんじゃ。

そがあなことは徴税人でもやっとるわ。(`ω′)! 」

(マタイによる福音書 5 46)


"For if ye love them which love you, what reward have ye?
do not even the publicans the same?"
(St.Matthew 5 46)



ついでに言えば、世の中には、上のどっちでもない、中間の人もいますね。そういう人は、民族主義者とか、国粋主義者を自称している人たちにいるようです。これはこれで、行き過ぎると、極端な排外主義とかになったりして、よくないことになったりすることもあるようです。


中間にいて、行き過ぎる。


不思議なことです。


やはり、他人を見る目というものは、柔軟に遠近がつけられるようでなければなりません。


心の視力回復。


これが今の私たちのテーマです。






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2007-11-18 20:00:07
【思索】国際化時代における料理と宗教の相似性について



料理の歴史というものを考えてみる。


ある小さな村々があって、それらが集まって、国になった。


やがて、その国には、その村々の料理がお互いに取り入れられた。


で、それらの村々の料理はやがて一つの料理になった。


つまり、その国の料理になった。


やがて、国際化が始まり、国と国が交易したり、戦争をしたりするようになった。


そうするうちに、それぞれの国に、いろいろな他国の料理が知られるようになった。


例えば、日本において、中華料理が食べられたり、イギリスにおいてカレーが食べられたりするようになるなど。


しかし、まだ、完全な国際化が達成されていない頃には、それぞれの国において、その国の料理はある種の権威を得ていた。


そのために、母国の料理において、他国の料理の食材や技法を取り入れると、邪道として非難されることがあった。


例えば、フランス料理において、醤油を使うのは禁じ手であるとか。


しかし、今日のように交通機関が発達し、インターネットが普及し、国際交流が盛んになると、もうそういう考え方は通用しなくなる。


それどころか、むしろそれぞれの国において、他国の料理の食材や技法が積極的に取り入れられるようになる。


例えば、日本の懐石において、カルパッチョが出てきたり、フランス料理において、隠し味にみりんが使われたりするのは、何も珍しいことではなくなる。



で、この先の話は、現時点から見て未来の話になるけれども、いずれは世界料理のようなものが出来るだろう。


そうなると、これまで、国単位で認知されていた料理は、世界料理の一ジャンルに過ぎなくなるだろう。


つまり、フランス料理も、日本料理も、中華料理も、イタリア料理も、韓国料理も、世界料理の一ジャンルに過ぎなくなるだろう。



で、僕は考えてみるのだけれども、宗教の歴史というのも、上の料理の歴史とだいたい同じような運命をたどるのではないか。


例えば、中世の時代、ある国において、ある宗教がその国のほとんどすべての国民に信仰されていた。


その状況においては、その国の人々はその宗教を信じるのが当たり前であって、他国の宗教はすべて邪教だった。


その考え方に基づいて、宗教戦争が頻繁に起こった。


しかし、今日の国際化社会においては、成熟した社会から順に宗教上の対立や排他的なこだわりはなくなってきているように思える。


一昔前までは、特に宗教熱心ではない人たちの間においても、宗門意識というものがあったはずである。


つまり、「うちは○○宗の××派である」という意識があったのだろうけれども、それが、最近では、例えば、日本において、大分見られなくなった。


それに伴い、他の宗教の教義に対する拒絶反応も少なくなってきているように思われる。


要するに、「自分は仏教徒だから、聖書は一切読まない」とか、「自分はキリスト教徒だから、禅の意識について学ばない」といった考えが少なくなってきているように思う。


むしろ、今日では、例えば、いろいろな宗教の共通性について、いろいろな立場から語られたりする。


神秘主義を例に挙げると、仏教の禅、イスラムのスーフィズム、ユダヤ教のハシディズム、キリスト教のエックハルトなどのドイツ神秘主義における精神の共通性が、ここ100年の間で、キリスト教徒や仏教徒など、いろいろな立場の人たちの間で語られるようになった。


そして、その論調も、段々我田引水なものではなくなってきているように感じられる。


これには、やはり、国際化と情報化が影響しているように思う。


かつては、国を自由に行き来することが出来ず、(特に他国の宗教に対して)少ない情報の中で考えることしか出来なかったので、宗教もまたナショナリズムの色彩を帯びざるを得なかったのだろう。


しかし、今日のように、インターネットで自由自在にいろいろな国の宗教についての情報が多角的に入手できるようになると、自然とナショナリスティックな宗門への帰属意識は薄らいでいくのではないだろうか。



そして、これからの宗教のあり方を考えてみると、上に述べた料理の一ジャンルのようなものに過ぎなくなるのではなかろうか。


つまり、これからの社会においては、キリスト教、仏教、イスラム、ユダヤ教といった宗教は、フランス料理、イタリア料理、日本料理、中華料理といった料理のジャンル(あるいは学校における学科)と変わらなくなるのではないだろうか。


ましてや、それぞれの宗教における、さらに細かい宗派にいたっては、郷土料理程度の意味しかなくなるだろう。


そうなると、例えば、仏教徒が聖書の勉強をするとか、キリスト教徒が禅寺で座禅を組むのは何ら珍しいことではなくなるだろう。


そして、かつての国際化以前の時代のような宗門ごとの帰属意識はなくなり、各宗派の体制側においても、あれは異端だ、これは邪道だというような審問もなくなるだろう。


また、それぞれの宗教の教義を比較した場合における矛盾についても、現在ほど気にならなくなるだろう。


それはちょうど、ニュートンの万有引力の法則とアインシュタインの相対性理論に相容れない部分があるとしても、そのために、どちらかしか認めない、学ばないというわけではないのと同じことだ。


あるいは、例えば、日本文学が好きな人が、夏目漱石の思想と森鴎外の思想が相容れないからと言って、そのどちらの小説しか読まないということはないのと同じことだろう。



では、未来の宗教はどうなるのか。


これは、僕のまったくの想像だけれども、おそらく、いつか、Wikipediaのような全人類が平等に参加することの出来る運営方式に自然と落ち着くのではないか。


つまり、全人類が自由に参加できて、自由に発言できる場が実現し、そこにおいて、かつてのありとあらゆる宗教の良い点が取り入れられ、摂理に合わないものは、言い争ったりしなくても、自然淘汰されていくのではないか。


それと同時に、一昔前に流行ったような、伝統宗教の教義を寄せ集めて作られた混教宗教的な新興宗教の類は廃れるだろう。


つまり、新興宗教は、Wikipedia的な宗教に取って替わられ、誰も使わないエスペラント語に過ぎなくなるだろう、ということである。




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2007-12-25 20:11:18
【思索】許せないのか、許さないのか



許せないということと、許さないということについて。



以下の二つの例を考えてみる。



あるところに、Aさんという人とBさんという人がいた。


あるとき、BさんがAさんの機嫌を損ねることをした。


そこで、Aさんが言った。


「俺はBの奴を許せない!」



あるところに、A’さんという人とB’さんという人がいた。


あるとき、B’さんがA’さんの機嫌を損ねることをした。


そこで、A’さんが言った。


「俺はB’の奴を許さない!」



上の二つの例を考えてみると、一つの疑問が浮かぶ。


Aさんの言う「許せない」とA’さんの言う「許さない」はどう違うのだろうか。


私には両者の区別がつかないのだが。



もちろん言葉の上での違いはある。



Aさんは「許したくても許せない」と言いたそうだ。


しかし、本当に許せない理由はあるのだろうか。


実は許せるのだけれども、許したくないだけなのではないか。


結局のところ、「許したくないのだけれども許してやる寛容さ」がAさんにはないのではないか。



一方、A’さんは「許そうと思えば許せるが、あえて許さない」と言いたそうだ。


しかし、本当に許そうと思えば許せるのだろうか。


実は許そうとしても、許せないだけなのではないか。


結局のところ、「許そうと思えば許せるから許してやる寛容さ」がA’さんにはないのではないか。



そう考えてみると、結局のところ、上の二つの言葉は同じものだ。



「許せない」のではなくて、「許さない」のだ、あなたの狭量ゆえに。


「許さない」のではなくて、「許せない」のだ、あなたの狭量ゆえに。



なお、上と同じことは、例えば、「諦められない」と「諦めない」においても言える。



「諦められない」のではなくて、「諦めない」のだ。


「諦めない」のではなくて、「諦められない」のだ。



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