以下、ベスト用記事
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10112793517.html



【芸術】


歌の歌詞に実感のない人生を見出す未熟。



昔、ある有名な作家が、新人の頃、自作を出版社に持ち込んだところ、以下のように言われて断られたそうである。

「面白いところは独創的でなく、独創的なところは面白くない。」



芸術家が自己鍛錬を始めたら、芸術作品は死滅するだろう。



多作の人は信用できないだろうか。



芸術作品は批評することが出来るが、

芸術作品は批評によって成り立っているわけではない。

人間の精神は分析することが出来るが、

人間の精神は分析によって成り立っているわけではない。




【美しさ】



美しい人に、美しいものを選ぶセンスがないのは皮肉なことである。

美しい瞳に鑑識眼があるわけではないのだ。



美しい者には心を惹かれるが、美しい者が心を惹かれるものには心を惹かれない。



数学的な美しさ、哲学的な美しさ、芸術的な美しさ



慰めは2種類ある。

1.美しい人への慰め
2.美しくない人への慰め

前者は偽物であり得、後者は本物であり得る。
美しい人が慰めを嫌うのは、偽物ばかりを食わされているからである。


美しく見えるものが美しいとは限らない。

美しく見られるものが美しいとは限らない。



【日記】鎌倉の歐林洞でCes Chiensのライブを見ました。(一部)

それから、途中で早川さんのMCがあって、昨年9月に亡くなった仲間のHONZIさんを追悼する歌を歌う。

これがとてもよかった。

音と着想に心がこもっている。

感情を感情的に表現するのではなくて、感情をアートとして表現していた。

我を忘れて涙ながらに歌うのではなくて、涙を、一端、音に変換して歌っていた。


泣いたり、がなったりするのは、表現じゃない。要求だ。

要求は、奪うものであって、与えるものではない。

表現は与えるものだから、要求は表現ではない。

要求は表現できない。


例えば、テロリストたちが人質を取って銀行に立てこもり、政治的な要求をするのは、表現じゃない。

犯人たちは何かしらを訴えながら、実は要求ばかりしている。

力ずくで奪い取ろうとするから、力ずくでねじ伏せられる。

表現しながら、要求するのは、矛盾している。

表現する人にとっても、鑑賞する人にとっても、これを見極めるのがなかなか難しいんじゃないかしら。





【人生】



苦難は有能さを与えてはくれないが、有能さの本来の使い道を教えてくれる。

苦難にあわない人が努力すると、有能にはなるが、その使い道を知らないので、達するべき目的を達することが出来ない。

苦難にあった人が努力しないと、有能さの本来の使い道は知っても、有能さを得られないので、達するべき目的を達することが出来ない。


苦難は人生の使い道を教えてくれる。

金儲けは苦難を忘れさせてくれる。

故に金儲けは人生の使い道も忘れさせてくれる。



人生における2つの指針:

1.疑わないこと。

2.騙されないこと。

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」
(マタイによる福音書 10 16)



人生がうまくいっている人。

人生がうまくいっていない人。

人生がうまくいっていないから、うまくいっている人。



したいことではなくて、出来たことを言うのがよい。


クリエイティブではない人の生き方は以下の2種類に分類することが出来る。

1.定員枠争い(学歴争い、バーゲンセール、電車における空席の取り合い、買占めなど)

2.転売(受け売り、パクリ、株の売買、丸投げ発注、ピンハネなど)

両者の違いは、利ざやの稼ぎ方の違いである。

前者は「空間的」であり、後者は「時間的」である。

いずれにしても、クリエイティブではないという点においては同じである。

クリエイティブに生きたければ、上のようなことをなるべくしないことである。



「傷つかなければ、何も生まれない」と言いながら、何も生み出さない人がいる。

彼は自説の正しさを体現している。



評論家は歴史に名を残さない。

彼らに評論されたものが歴史に名を残す。



「受くべからざるは取るべからず」は与えられていない人だけに与えられる。



人間はしたいことは何でも出来る。

出来ないことをしたいと思わなければよいのだから。



たいしたものを作れない人が、すごいものを作る。

すごいものを作れない人が、たいしたものを作る。



他人でも出来ることは、他人に任せるべきである。

「読者にもできることは、読者にまかせることだ。」
ウィトゲンシュタイン 「反哲学的断章-文化と価値」(丘沢静也訳)



馬に賭けるより、自分に賭けなさい。

株を買うより、自分を買いなさい。

投資する人間ではなく、投資される人間になりなさい。



若い頃は、得られなかったものを悔やむ。

年を経ると、与えなかったことを悔やむ。



恵まれている人の生来の自信を、そうでない人が努力して身につけることは出来ない。

そうでない人は別の種類の自信を探すべきである。



世の中には仕方がないことが多いが、仕方がないことだけでもない。

仕方がなくないこととは、誰でも出来ることである。

誰でも出来ることで最も大それたことは、犯罪である。

中途半端な人が成し得る唯一の大それたことは犯罪である。

大それた犯罪は、中途半端な人が起こす。


誰でも出来ることを、誰でもやるわけではない。

誰でも出来ることで、大それたことではないことを、自主的にこつこつやってみると、案外納得のいくものが出来る。



素敵なことは義務じゃない。



努力は引っかき傷に似ている。

たくさん努力すると、たくさん引っかき傷が出来る。

もっとたくさん努力すると、引っかき傷が磨り減って見当たらなくなる。



現実を分析し、不遇を分析し、苦しみを分析し、悲しみを分析し、憎しみを分析し、

人生を設計し、恋愛を設計し、成功を設計し、喜びを設計し、救いを設計し、

それらが稼動するのを見ないまま、世を去るのだ。



人生において、緊急性を重要性よりも常に優先してしまうと、緊急性のない重要なことを一生し損ねる。

「明日までに作成しなければならない会社の資料」などのことで常に頭が一杯になっていると、「人は何故生きるのか」について考える機会が一生なくなる、など。



人生は道に例えられる。

そう考えてみると、人間には2つの能力が必要とされる。

ひとつは、「道を進む能力」である。

これを人は「努力」と呼ぶ。

もう一つは、分岐点に差し掛かった際に、「どの道を選ぶべきかを見極める判断力」である。

いわゆる「恵まれている人」が出世しやすいのは、後者の能力に恵まれているからである。

後者を若くして自力で得るのは難しい。

しかし、晩年においては、その立場が逆になる。


『差別に関わらない生き方』と『差別をなくすための生き方』は別物である。

後者の道を選ぶ人は、本人の意に反して、差別に逢うだろう。

「私はあなたたちと共には行けないかもしれないが。」(M・L・キング牧師)

(個人的に)差別されたくないのか。

(世間的に)差別をなくしたいのか。

どちらをトレードオフするかである。





【言葉】



恋(こい)は訓読みであり、愛(アイ)は音読みである。

愛(アイ)は外国語(中国語)である。

今、あなたの目の前に、以下の英語の問題があるとしよう。

【問】 "I love you."を日本語に訳せ。

そのとき、あなたは何と訳すだろうか。

ある人はこう訳すかもしれない。

【答】「私はあなたを愛しています。」

すなわち、直訳である。

ところで、実際に、恋人に向かって「あなたを愛しています」という人が何人いるのだろうか。

実のところ、「愛しています」は言いにくい。

本来のやまとことばではないからだろう。

「人類愛」や「隣人愛」が、日常会話において、ぴんと来ないのも、同じ理由であろう。

なお、愛の訓読みは「いと(おしい)」である。



「彼女」(she)という日本語は近代までなかったのだそうな。

西欧化にあたり、「彼」と対になる言葉として作られたのだろう。

(「◆西欧語からの訳語「かのおんな」の「おんな」を音読した語。」(大辞泉))

で、この彼と言う言葉も、元々は「[代]遠称の指示代名詞。あれ。」(大辞泉)であって、男性を差す言葉ではない。

そのせいか、昔から、「彼女」と言う言葉に違和感を覚える。

先日以下の文章を書いてみて、改めてそう思ったのだが、日本語の場合、男性であれ、女性であれ、三人称は「彼」でいいんじゃないだろうか。

【小説】わんたん。 R2 Draft1」
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10113916241.html

今後、小説などを書く場合は、状況に応じて、性別を問わず、三人称は「彼」と書くことにする。



文章の価値は、単語と単語の組み合わせ方で決まる。

美しい単語は固形スープに似ている。

それを文章に混ぜれば、誰でも簡単に美味しいスープが作れてしまう。

しかし、誰が作ってみても、味は同じになってしまうのだ。





【人間性】



嫌な人とは、内と外の区別がつけられない人、すなわち、他人に本音を言ってしまう人である。

いい人とは、内と外の区別がつけられる人、すなわち、他人に本音を言わない人である。

どのみち、嫌な人には違いないのだが。



鈍感な人の特徴:

他人が鈍感に見える。


神経質な人の特徴:

「他人が神経質に見える。」


他人が神経質に見えるのが神経質な人の特徴である。

他人に不誠実な印象を与えないのが、不誠実な人間の特徴である。

みっともないことをされて、みっともないことを仕返す人は、みっともない人である。



怒りっぽい人の特徴:

他人が怒りっぽく見える。.





【抽象論】



一面的な考え方を理論と呼ぶ。

それは正しいかもしれないが、それですべてが説明できるわけではない。

理論は常に一面しか言い当てることが出来ない。

一般に、理論は、それが正しいかどうかよりも、それがどの範囲内で適用できるのかを考えたほうがよい。


抽象的な言葉は、多くの人を励まし、多くの人を傷付ける。

見ず知らずの人が、私の言葉に頷く。

見ず知らずの人が、私の言葉に傷付く。



異口同音は普遍的な外観の証。



心の矢は、身に覚えのある人の心だけに突き刺さる。



抽象的な言葉は、身に覚えのある人の心に突き刺さる。

意識する人は、それを避けることが出来ない。



当て付け、冷やかし、皮肉は、成り損ないの抽象論である。



否定論は常に未熟である。

それは肯定論に依存しなければ成り立たない。



抽象的なものに出会うためには、具体的な人間関係を、ある程度は遠ざけなければならない。



見下ろす魂、見上げる魂。

人生には、「トップダウン設計」的なViewと、「ボトムアップ設計」的なViewがある。



ある人の現実を、他人の視点でモデリングすることは事実上不可能である。

情報が少なすぎるのだ。



自分に都合のよい考えは、考えれば考えるほど具体化してくるが、それで実現に近づいているわけではない。

妖怪の想像図がどんなにリアルに描かれても、そんな妖怪が実在するわけではないのと同じである。



ある人の唱える抽象論は、すべての人に与えられるが、例外的に、その人の顔見知りの人たちには与えられない。

「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」(マタイ 13-57)

例えば、容姿の美しくない男性が、同じように容姿の美しくない女性と付き合っているとしよう。

その彼が自分の恋愛体験を元に美しい恋愛小説を書いたとしよう。

それを読んだ世の人々は彼に賞賛を贈るだろう。

しかし、彼やその恋人の顔見知りの人たちにとって、それは笑える話でしかないのかもしれない。



基本は過去に、応用は未来に。

基本を理解するということは、過去を遡るということ。

未来を志向するということは、応用で済ませるということ。

未来志向は応用志向であって、案外新規性に乏しいものである。




【議論】



否定は、拒絶であり、棚上げである。


他人を黙らせる言葉が自分を黙らせるとは限らない。

皮肉や当てこすりというのは、自分とは相容れない生き方をしている他人が、自分より上手くやっているときに言うものである。

だから、そういった物の言い方をするのは、自分の人生がうまくいっていないことを告白することにほかならない。

皮肉屋という名の材木業者

他人を見下すというのは、自分が偉い人間であると錯覚させるための、一番コストのかからない方法である。

自分が偉い人間になるためには、自分のレベルを上げるしかないが、それはなかなか大変なことである。

代わりに考え付くのが、自分以外の人間を全員自分よりも一段下に置く方法である。

これは、自分と対立する他人を否定することで、自分が肯定されたような気になる、というのと同じ錯覚である。

称えるのも貶すのも、追随の一種であり、難しいことではない。

すべての意見は参考意見である。

あなたは他人の意見に依存することは出来るが、

他人の意見はあなたの責任を肩代わりしてくれない。

(ここで言う意見は、宗教でも、主義でも、哲学でも同じことである。)

「自らを灯明とせよ。」(仏陀)