以下、ベスト用記事
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【価値】



「正論」から「意味」を汲み取るのは簡単だが、正論から「価値」を汲み取るのは難しい。

人間は、相手の意図を、音声や映像の形で、目や耳から受け取る。

音声や映像は頭に送られ、文字情報に変換される。

変換された文字情報から、意味が汲み取られ、心に回される。

心は、回された意味から、さらに価値を取り出す。

ここで、文字情報が正論の場合、この最後の処理が機能しないのだ。

正論を聞かされた人は、正論から意味を取り出すと、「それはそうですね」と言って話を終えてしまう。

彼はその正論から価値が取り出せなかったのだ。

なお、優れた詩は意味をすべて取り出さなくても、価値を取り出すことが出来る。

だから、優れた詩は、意味がよく分からなくても、感動することがある。



価値のある人は、価値論を道徳論より優先する。

だから、価値のある人は、道徳についてまったくの音痴である。



私は、きれいごとを聞くのは好きではないが、その中から言い手も気が付いていない本来の価値を見出すのは好きである。

言い手が、自分の発言の中に含まれる価値に気が付いていないのは、彼が受け売りの言葉を言っているからである。



価値あるものを得るよりも、価値観を得ることの方が大切である。

人間には誰しも食欲と性欲に基づいた価値観は最初から備わっているが、例えば、高尚な芸術を理解するための価値観は自分で養わなければならない。



問題にもピンからキリまである。

ピンの問題はキリの問題より価値がある。

問題はそれ自体に価値がある。

フェルマーの最終定理などがそうである。





【人間関係】



大切なのは、他人を負かすことではなくて、自分が負けないことである。
自分が負けないために、他人を負かさなければならないのは、対戦型の人間関係の場合のみである。


あなたが他人を蚊帳の外に置くとき、その人もあなたを蚊帳の外に置くだろう。



親しい人とは建前で付き合い、面識のない人とは本音で付き合う。



見切るのと見切りをつけるのは違う。

僕は君を見切ったが、見切りをつけてはいない。

君には更なる努力を希望する。



蛇の道は蛇。

蛇の道に入って、蛇以外の友を得ることは出来るだろうか。



男女の仲は、親子の仲ほど、長くは続かない。



もてなしの心には気がつかないほうがよい。



「空気を読めない奴」についての考察。

世の中には、空気を読むのが得意な人と苦手な人がいる。

空気を読むのが得意な人とは、厳密に言うならば、「この場の空気」を読むのが得意な人である。

そして、この場の空気を読むのが得意な人は、この場以外の場所の空気を読むのが下手な人でもある。

空気を読むのが得意な人とは、厳密に言うならば、「今の時代の空気」を読むのが得意な人である。

そして、今の時代の空気を読むのが得意な人は、今以外の時代の空気を読むのが下手な人でもある。

この場に感覚を研ぎ澄ませると、この場以外の場所に感覚が行き届かなくなる。

今に感覚を研ぎ澄ませると、今以外の時代に感覚が行き届かなくなる。

感覚的鈍感はお互い様である。



「空気を読むのが上手い人」と「噂話をするのが好きな人」は同一人物である。

「空気を読む」のと「空気を作る」のは同じことである。

空気とは、雰囲気に噂話を溶かし込んだものである。

「空気が読める人」が「空気が読めない人」を嫌うのは、「自分が作り出した、自分に都合のよい空気」を、その人だけが素直に吸ってくれないからである。



他人の意見は所詮他人の意見だが、
異口同音ならば、メタな意見として聞いておいたほうが良い。


私が個人的に気が合う人たちには、私以外の人たちから嫌われている人が多い。


ともに泣くのは幸せだね。

仲間がいるのだから。



不利な立場にいる人ほど、他人の真心が見えてしまう。

先日、ある人がこう言ったそうだ。

「友人は選べるが、隣人は選べない。」


原始社会において、隣人とは地理的に近くに住んでいる人を指した。

今日の社会においては、隣人とはお互いの意思で求め合ったわけではない状況において付き合っていく人を指す。

お互いの意思で求め合ったわけではない状況とは、例えば、学校や会社を指す。

そう考えてみると、学校の同級生も、会社の同僚も、友人と言うよりは隣人である。

少なくとも、隣人は必ずしも志を同じくしないから、同志とは限らない。



娯楽の有用性は、同志ではない隣人とうまく付き合っていく環境を与えることにある。

娯楽の欠点は、そこに何の中身もないことである。

娯楽は隣人との付き合いを円滑に進めるが、それだけで友人が得られるわけではない。


享楽的な人ほど、隣人との付き合いがうまい。

一見友人が多いように見える人も、よく見れば隣人しかいないと言うことはあり得る。



友人とは理想を共有し、隣人とは現実を共有する。

友人とは喜びを共有し、隣人とは我慢を共有する。



試練は享楽で得た遊び仲間との友情をふるいにかける。


志を持てば、同志が得られ、志を捨てれば、隣人が得られる。


遊び仲間との付き合いは、芋づる式に増えて、芋づる式に途絶える。



敬語を使うと、敬語を使われる。



「心を傷つける」という言い方がある。

例えば、AさんがBさんに対して、「あなたは私を傷つけた」と言ったとしよう。

しかし、Bさんは身に覚えがないということはあり得る。

ある人が、「あなたは私の心に傷をつけました」というとき、それは次の2種類に分類できる。

1.「あなたは私の心に新しい傷をつけました。」

2.「あなたは私の心の古傷に触れました。」

後者の場合、厳密には、「あなた」は「私」の心に傷をつけてはいない。

しかし、「私」は「あなた」が心を傷つけたと考えている。

ここに両者の認識の違いが生じる。



客対客の人間関係は成り立たない。

個人的な人間関係において、相手が客でないように、あなたも客ではない。

あなたが客の立場を譲らなければ、あなたの人付き合いは上手くいかないだろう。




【未熟】



精神的な修養が足りない人の共通点は、態度が変わりやすいことである。


ある人が捻(ひね)くれて見えるのは、その人の捻くれ方が足りないからである。


人間は、本当に捻くれ切ってしまうと、ネジのように、かえって真っ直ぐに見えるものだ。

例えば、私がそうである。


ある人が、まっすぐに見えないのなら、その人は、捻くれているというよりは、いまだに捻くれ方が足りないのだ。

自分の捻くれぶりをアピールして認めてもらいたがるのは、いまだ無垢なお人好しの青年である。

そういう青年は、捻くれ切るには、いまだ相応の老獪さが足りないのだ。


そうかと思えば、年をとっても、いまだに青年期の中途半端な捻くれぶりが治らない人もいる。

いわゆる気難しい人である。

その人は、人生が停滞したまま過ぎてしまったのかもしれない。


上と同じことは、ほかのことにも言える。

例えば、「自意識過剰な人」とは、「人並みはずれた自意識を持っているすごい人」というよりは、「いまだに自意識をコントロール出来ない未熟者」という方が正解である。

だから、自意識過剰も、一種の青春病である。

逆に、この段階を抜けた人、すなわち自意識過剰を極めた人は、もはや、他人から非難の意味をこめて、自意識過剰だと指摘されることはない。

自意識は極めると、自然になる。

「完全なる技術は再び自然となる」(カント)

意識が自然になるということは、それが消滅するということである。



「許せない」がその人の限界である。

すぐにキレたり、ムカついたりする人を、そうさせないように配慮するのは、心労の無駄である。



ある人の心の強さは、その人の心の狭さに比例している。

人の心は、それを狭めることによって、一時的に強めることが出来る。

しかし、その状態を長く続けていると、その人の心の強さと狭さはその状態で固定されてしまう。

これが、「心の近眼」が発生する原因である。



一般に個人主義者には強気な人が多いが、これも上の現象の常習化が原因である。

例えば、抗議するとき、心が狭くならない人はいない。

しかし、それはたいていの人の場合、一時的な現象である。

しかし、世の中にはその態度が常態化している人もいる。

心を狭くすることによって、自分の心が強められること、そうすれば自分は強く生きていけるということを、経験によって身に着けてしまった人である。

なお、このやり方を意識的に取り入れることで自分の心を強くするのは、いわば「心のドーピング」であり、止めた方がよい。

それはあなたを蝕むだろう。



禁忌は精神的無菌状態である。

無菌状態にいては、精神的な免疫は生育しない。

「認めない」、「否定する」、は威勢のよいアレルギー反応である。

彼らが望んでいるのは禁忌(精神的無菌状態)の延長である。



未熟な人間の特徴 その1

「異性への要求が高い。」

ある人物がどの程度のものか知りたかったら、その人に異性への好みを聞いてみればよい。

その人の、異性に対する要求の高さに応じて、その人自身の精神は幼い。


「自慢する人」は「自慢し慣れていない人」だから、まあ、そう責めないことである。

例えば、うちの母がそうである。



例えば、あなたがニュースなどを見ては、ブログなどで告発している人たちの非のほとんどは、あなたが内心で許してあげれば、(あなたにとっては)済む問題のような気がする。



ある人が私に忠告してくれる。

「あなたはステップ1ね。私のようにステップ2に進まなきゃ!」

しかし、私はステップ3であって、ステップ1やステップ2にはもう興味はないのである。

たしかに、ステップ1とステップ3は間違えそうなぐらいよく似ているのではあるが、全然別の段階である。

そのことを相手の人に何と言って説明したらよいのだろうか。

(上のような話をすれば、「いや、私はステップ4なのよ」と取って返すのが、目に見えているではないか。)


電車での、若い人たちの会話を聞いていると、ひとつの特徴に気がつく。

それは「受け売りだけで会話が成り立っている」ということである。



未熟な人の特徴:

善悪の基準が個人的な損得に基づいている。



「好きな言葉は?」と聞かれて、副詞的な言葉をあげる人は、哲学性のない人である。

哲学性のない人は、好きな言葉を聞かれると、副詞的な言葉をあげる。

一生懸命、がむしゃら、絶対、がんばって・・・。

好きな言葉として、「一生懸命」をあげる人が、己の財産獲得や出世のために「一生懸命」になっているのを見ると、がっかりする。

「一生懸命」それ自体に善悪はないということに気づこう。



信用できない人は2種類ある。

1.履行する気のない人。

2.履行する能力のない人。

後者はどちらかと言えば、信頼できない人であるが。





【悲しみ】



涙ぐましい話に潜む本当の悲しみ。

月並みな表現に潜む想像もつかない事実。



今、あなたの目の前にある人がいて、あなたに涙ぐましい話をしたとしよう。

あなたはうんざりとして、一向に耳を貸さないかもしれない。

しかし、相手の人が伝えたいことは真実なのかもしれない。

ただ、その人は表現力に欠けているだけなのかもしれない。

その人は自分の苦しみや悲しみを表現する能力を持たず、ただ月並みなドラマのせりふや流行歌の歌詞に頼らざるを得ないだけなのかもしれない。

「お涙頂戴のお話」に反射的に鼻をつまむのも、再考の必要がある。



スキーを始めたばかりの人たちが滑って転んでばかりいるように、

思索を始めたばかりの人たちも滑って転んでばかりいる。

思索初心者の涙ぐましい話は、目くじらを立てずに聞き流すべきである。



本当の悲しみは憐れみに近い。

人間は自分自身を憐れむことが出来ない。

(それは茶番である。)

悲しみは他人に向けられるものである。





【社会】



ダニみたいな人間たちが群がって成り立っている世間を、遠くから眺めてみると星雲のように美しい。



村社会において孤立している人は、世界的な人なのかもしれない。



肩書き(社会的に高い評価)は平均的な母集団の上位にいる人が得るもので、それ以上のものではない。



人間は母親を通じて、世界とつながっている。



昔の世の中ではこう言われていた。

「百聞は一見にしかず。」

しかし、現代社会においては、もはや以下のように言わざるを得ない。

「百見は一聞にしかず。」

現代人は画像や動画ばかり見ていないで、たまには哲学書を読んだ方がいい。



寂しい街を歩いていて、寂しいのは街ではなく、自分であることに気がついた。

寂しい人の歩く街は寂しい街である。

楽しい人の歩く街は楽しい街である。



最高は2種類ある。

ひとつは母集団における最高。

もうひとつは母集団を超えた最高。

(例えば、一流大学を出て、一流企業で働くなどは、前者である。)

前者は「最も多くの人に認められるところの最高」であって、本当の意味での最高ではない。



人の住んでいる家には生命感がある。

どんなに古い家でも、どこか生き生きとしている。

人の住んでいない家は死んでいる。




【罪深さ】



あなたは他人がいかにお人好しであるかについて面白がって語りたがるが、

他人がお人好しに見えるのは、あなたの罪が深いからである。

自分の罪の深さがどのぐらいかを知りたければ、罪のない人を見てみればよい。

あなたの罪深さに応じて、その人がお人よしに見えるだろう。



あなたにとって罪のない人が、他の人にとってはなんでもない人でありうる。

罪のない人にとって、罪のない人は同類に見える。

彼らは気兼ねなく何でも話すことが出来る。

しかし、あなたは彼らの会話に入って行くことが出来ない。

(例えば、私がそうである。)



罪深い人にとって、罪深い人は同類に見える。

彼らもまた気兼ねなく何でも話すことが出来る。

ある人たちが、第三者の陰口を憚ることなく言い合えるのは、お互いに罪が深いからである。



迷惑をかけるために、謝る準備をしている人がいる。
道徳がエゴの道具に成り果てている。