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【思索】幸運は金、幸福は水 R2 Draft3


世の中には、幸福になりたくてもなれないという人たちがいる。
そうかと思えば、絶対に幸福を掴んでやると意気込んでいる人たちもいる。


人間は幸福になれないものなのだろうか。
幸福は掴み取ったりするようなものなのだろうか。


私は、どちらも違うと思う。
結論から言えば、幸福でない人間はいないし、幸福を掴み取った人間もいない。


上の2者について考えてみるとき、両者には共通した間違いがある。
彼らはどちらも幸福と幸運を取り違えている。


幸福と幸運は別物である。


幸福になれないといって嘆く人や、いつか必ず幸福を掴んでやると言っている人は、そもそも幸福の定義を間違えている。


これから、以下の四つのことについて考えてみよう。
1.幸福とはなんだろうか。
2.幸運とはなんだろうか。
3.幸福と幸運の違いはなんだろうか。
4.両者のうち、人間にとって本当に大切なのはどちらだろうか。


以下、それについて述べる。


幸運と幸福の関係は、何と何の関係に似ているだろうか。
私は、幸運と幸福の関係は、金と水の関係に似ていると思う。
人間の中には、金銀財宝を求める人がたくさんいるが、人間にとって本当に必要なのは水である。
人間の中には、幸運を求める人がたくさんいるが、人間にとって本当に必要なのは幸福である。


例えば、こう考えてみよう。


もしある奇特な人がいて、あなたに「金1kgか水1リットルのどちらか好きなほうをやろう」と言ったとしよう。
そのとき、あなたはどちらを取るだろうか。
誰でも金を取るのではないだろうか。
何故なら、金を1kgをもらい、それを換金すれば、水はいくらでも買うことが出来るからだ。
あるいは、水道の水でよければ、水など、いくらでもただ同然で得られるのだから。
逆に、水1リットルを得て、それを換金したところで、金は1グラムも買うことができない。
そういう意味では、金の方が水よりも価値があるように思える。
例えば、プレゼントに金の装飾品を贈る人はいても、水を贈る人はいない。


しかし、金と水を比べたときに、人間にとって本当に価値があるのはどちらだろうか。
実は、水ではないだろうか。


何故なら、人間は金がなくても死なないが、水がなければ死んでしまうからだ。


例えば、こう考えてみよう。


ある人が砂漠で遭難したとしよう。
そして、のどが渇いて、今にも死にそうになっているとしよう。
そのとき、やはり、ある人が現れて、「金1kgか水1リットルのどちらか好きなほうをやろう」と言ったら、あなたはどちらを取るだろうか。
誰でも水を取りはしないだろうか。
そう考えてみると、金の方が水よりも価値が高いというのは、金の方が換金率が高いという、単なる経済的な話であって、それ以上のものではないことが分かる。


幸運と幸福の関係もそれに似ている。


世の中には、やたらと幸運を掴みたがる人がいる。
なるべく働かなくてもいいように、なるべく楽が出来るように、なるべくいい思いが出来るようなことを探している。
そのために、例えば、親の財産だとか、美しい容姿だとか、宝くじの当選だとか、そういったものが、たいした努力もしないで手に入らないだろうかと思案をめぐらせている。
そもそも、私たちの心の中には、他人の幸運をうらやましく思ったり、自分も幸運を掴みたいと思ったりする気持ちがある。
それは何故だろうか。


それは、幸運の換金率が極めて高いからだ。
しかし、それは滅多に手に入るものではない。
また、それは自力で必ず手に入れられるものではない。
最高の幸運を手に入れようとして、自分の全人生を賭けるのは、3億円の宝くじを当てるのに、自分の全人生を賭けるようなものだ。
自分の全人生を賭けたところで、3億円の宝くじは当たるのだろうか。


上のようなことを考えてみると、幸運の特徴は以下のように言える。


1.幸運は、非常に経済的な価値が高い。
3億円の宝くじが当たったら、個人にとっては大変な経済的な効果がある。


2.幸運が手に入るかどうかは、確率的なものであって、自力で手に入れられるものではない。
力ずくで3億円の宝くじを当てることはまず出来ない。


なお、3億円の宝くじを自力で手に入れる方法は、以下の2種類である。
Ⅰ.すべての宝くじを買い占める。
Ⅱ.3億円の宝くじが当選した人から、3億円以上のお金で買い取る。
いずれにしても現実的ではなく、儲けはない。


3.幸運がなくても、人間の生活に支障はない。
3億円の宝くじが当たるのは大いにけっこうだが、別に当たらなくても生活に支障はない。


4.一般に、ある人が幸運を掴み取るということは、それ以外の人たちが不運を掴み損ねるということである。
あなたが3億円の宝くじを当てるためには、他の人たちが買った宝くじが外れなければならない。
あなたが、「私に3億円の宝くじが当たりますように」と祈るということは、「私以外の人たちが全員外れますように」と祈っているのと同じことだ。
結局、自分の幸運を祈るということは、それが他者の不幸と繋がっている場合、他人の不運を祈るということだ。
だから、自分の幸運を祈るというのは、利己的な行為になり得ることを忘れてはいけない。


では、幸福というのはどういうものなのだろうか。
それは、今述べた幸運の特徴の反対である。


すなわち、以下の通りである。


1.幸福は、非常に経済的な価値が低い。
それは水や空気のようにほとんど1文にもならない。


2.幸福が手に入るかどうかは、確率的なものではなく、だれでもそれを手に入れることが出来る。
それは誰でも手に入れることが出来るというよりも、誰でも最初から手にしているものである。


3.幸福がなければ、人間の生活は成り立たない。
ある人が精神的な生活を送っているということは、すでにその人が幸福を得ている証拠である。


4.ある人が幸福を掴んだところで、それ以外の人たちが不幸になるということはない。
幸福は幸運と違って、排他的なものではない。
誰かが呼吸をしたからと言って、ほかの人が呼吸できなくなるというものではない。
実のところ、幸福というのは、極めて希薄なものだ。
それは、日々、あちこちに満ち溢れており、誰でも手にすることが出来るのだけれども、私たちそれをなかなか実感することが出来ない。


ゲーテは言った。


「世に”幸福はある”が、私たちはそれを知らない。
知っていても重んじない。」(ゲーテ)


結局のところ、幸福とは何ぞや。


それは、人間の精神を成り立たせている根本要素だ。
いや、むしろ、そういうものを幸福と呼ぶのだ。


今、ここに一人の人間がいて、精神的な生活を送っているのなら、その人はすでに幸福な人である。
何故なら、その人の精神は幸福から成り立っているからだ。
幸福がなかったら、実は私たちは生きていくことが出来ない。
世の中には幸福になれないといって嘆く人がいるけれども、それは幸福に気が付いていないか、軽んじているだけのことだ。
そういう人でも、知らないうちに、その人なりの幸福を摂取して生きている。
私たち自身が、普段、何気なく水を飲むことで、生きられているように。
そういう意味で言えば、幸福というのは、水どころか、空気に近いものなのかもしれない。
私たちは空気がなかったら、ものの数分もしないうちに窒息死してしまうのだから。
人間は、心の中に幸福がなかったら、ものの数分もしないうちに気が狂ってしまうだろう。
空気のように薄く、空気のように不可欠なもの、それが幸福だ。
幸福の換金性が低いのは、言い換えるならば、幸福には金では買えない価値があるということだ。
英語の"priceless"という単語を思い出してみるといい。
"priceless"とは、「値段」("price")が「ない」("less")ということだ。
値段がないのは、「1文の値打ちもない」ということではなくて、「お金では買えない、値段を付けることが出来ない」という意味だ。
幸運に値段を付けることは出来るが、幸福に値段を付けることは出来ない。
3億円の宝くじが当たるという幸運は、言い換えれば、3億円で買える程度の価値しかない。
しかし、日々の幸福は3億円では買えない。


私はここではっきりと言っておきたい。
人間にとって、幸運はなくてもかまわない。
そんなものはなくても、私たちの精神は死なない。
しかし、幸福がなかったら、それは成り立つことが出来ず、死んでしまう。
だから、私たちは求めるものを、間違えてはいけない。
荒野で、水を飲むのも忘れて、無我夢中になって金を掘り続けていたら、そのうち、脱水症状を起こして死んでしまう。


ヨハネは水によって洗礼を授けた。
だから、あなたも、金を求めるより、水を求めなさい。良質の水を。


さらに、イエスは水ではなく、聖霊(the Holy Spirit)によって洗礼を授けた。
だから、あなたも、水を求めるより、聖霊を求めなさい。良質の聖霊を。


求めるものを間違えて、心が窒息しないように気をつけなさい。


幸福とは、聖霊(the Holy Spirit)の別名である。


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【思索】栄光と憐れみについて

昔、僕の友人でとても素敵な人がいた。

誰に対してもやさしくて親切な人だった。

その人にはいつも栄光(glory)が輝いていた。

僕はその人が好きだった。


何年か経って、僕はその人とひさしぶりに再会した。

久しぶりに会ったのがうれしくて、いろいろとお話をした。

しかし、その人は、何かが変わっていた。


その後、しばらくの間、お付き合いをさせてもらっていたのだが、やはり違和感がぬぐえなかった。

それからしばらくして、僕はようやく気がついた。

その人にはかつての憐れみ(mercy)がなくなってしまっていた。


ようやく、僕はひとつのことを悟った。


人間にとって、栄光と憐れみは同じものなのだと。

栄光と憐れみの関係は、炎とろうそくの関係に似ている。

ろうそくはそれ自体が輝くわけではないが、それ(燃料)がなければ、炎は輝くことが出来ない。

かつて栄光で輝いていた友人が輝かなくなったのは、まさにそこにあったのだ。


思えば、その人はとても憐れみ深い人だった。

いろんなことに気付き、いろんな思いやりを形にすることが出来る人だった。

僕はその人のそばにいるだけで幸せな気持ちになれた。

でも、数年ぶりに再開したその人にはもうそんな雰囲気がなかった。


一般に、栄光というと、イエスや仏陀のような偉い人に恒常的に差している光を想像する。

しかし、栄光というものは、実際には、そういうものではないようだ。

例えば、もしある人が聖人と噂される人の話を聞いて、その人のもとに駆けつけたとしよう。

そうしたところで、彼はどこにでもいるような普通の人を見つけてがっかりするだけなのではないか。


僕が思うに、栄光というのは、一般に考えられているよりも、ずっと主観的なものだ。

それは、憐れみを受けた人の瞳にしか映らないものだ。

かつて、僕の瞳には、いつもその人の背後に後光が差して見えた。

思えば、その頃、僕はいつも隅っこでじっとしていた。

そんなときに、僕はその人にずいぶん助けられたものだった。

僕は、いつか、その人にお礼がしたいと思っていた。

しかし、数年ぶりに会ったその人は、僕のことなど何の興味もないという感じだった。

なんというか、人間が殺伐としてしまっていた。

ただひたすら、俺は成功してやるんだ、という気迫ばかりが伝わってきた。

残念だなあと思いながら、僕はその人と美しい思い出にお別れをした。



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【思索】心の病の温床としての個人主義 R2 Draft1

現代社会には心の病が多い。○○症や××症候群など、いろいろな名前を聞く。何故、こんなに心の病が多いのだろうか。その最大の原因は、個人主義の増加にあるのではないだろうか。


世の中には個人主義者と呼ばれる人がいる。歴史的に見ると、個人主義者は、以下の2種類に分類できる。


1.未成熟社会における個人主義者


2.成熟社会における個人主義者



上のように分類した場合、前者の個人主義者は問題がある。何故なら、社会が成熟していない、つまり社会制度が十分に整備されていない社会において、その整備のために尽力するのは、その社会で暮す人々の半ば義務であるのにもかかわらず、1.の個人主義者はその義務を放棄しており、自分のことしか考えていないからだ。


では、後者はどうだろうか。例えば、今、ここに、成熟した社会があるとしよう。その社会では、社会制度が整えられており、弾圧も内戦も組織的な差別もない。交通もよく整えられており、福祉制度も充実している。失業率も低く、人々は暮らしに困ることがない。もしそんな社会があったとしたら、その社会に暮す人々はどんなことを考えて暮らすだろうか。おそらく、未成熟社会に暮す人々よりも、ずっと社会について考えることが少ないのではないだろうか。何故なら、そうする必要性が、前者に比べて、格段に少ないからだ。


だから、上のような成熟した社会においては、そこに暮す人々にとって、自分が個人主義者でいるのは、それを自覚しないぐらい、当たり前のことなのではないだろうか。今の社会において、社会を変えなければいけない、このままではいけないと真剣に考えている人がどれだけいるだろうか。それが、成熟社会のもっとも大きな問題を引き起こしている原因なのではないだろうか。


成熟した社会において、人々は、社会について心配しなくてもよい。だから、その分、個人的なことばかり考えて暮す。その人の心の中で、個人的な問題が大きな比重を占める。その結果として、未成熟社会だったら、気にすることもなかったような個人的なことが気にかかり始める。電車に乗っていると、隣の人の会話がうるさい、車内の匂いが気になる、同僚の些細な発言に傷つく、自分の容姿の欠点が気になる・・・。日常生活において、そんな、どうでもよいことが、敏感に、過大に感じられる。ほかに悩むこともないので、そういった個人的なことで悩む。そして、悩みはその人の心の中でどんどん大きくなる。しかし、それに耐えうるほどの心の鍛錬もないから、本人の心はそれを支えきれずに崩壊する。それは、ちょうど、体を鍛えることを面倒くさがっている人に筋肉がつかず、そのため、その人がたまに荷物運びをすると、たいして重い荷物でもないのに、すぐに疲れてしまい、苦しく思うのに似ている。肉体労働をしている人だったら、難なく運んでしまう荷物を運ぶことが出来ず、すぐに根を上げてしまう。今の世の中には、そんな人が多いのではないだろうか。


しかし、不思議なことに、人間は他人の心配をしているとき、自分のことがまったく気にならなくなるということもある。例えば、自分のことしか考えていない人が道を歩いていて、転んでひざを擦りむいたら、その怪我のことが気になって仕方がないかもしれない。その一方で、友人が交通事故で大怪我をしたというので、慌てて見舞いに行こうとしている人が、その最中に転んで自分のひざを擦りむいても、まったく気にならず、急いで病院に向うということはあるのではないだろうか。人間は他人のことを気遣っているとき、案外、自分の不幸には気が回らなくなるものだ。


キリストも言っている。


「自分の命を得ようとする者は、それを失う。」(マタイ 10 39)



個人主義はそれ自体が心の病ではない。だから、それ自体を問題視する人は少ないのかもしれない。しかし、それが心の病をはぐくむ温床になるのだ。個人主義と心の病の関係は、土壌と雑草の関係に似ている。土壌がしっかりしていればいるほど、そこには雑草がどんどん生えてくる。地主が慌ててそれを抜いたり、刈ったりしても、いくらでも生えてくる。そんなことをしても、きりがないだろう。草は大地に根を張らなければ生きていくことが出来ない。魚は水の中にいなければ生きていくことが出来ない。同じように、心の病も、生きていくための条件を満たさなければ、存在することが出来ない。


心の病をなくす、一番よい方法はなんだろうか。それは、心の病の温床である個人主義を捨てることだろう。個人主義という土壌がなければ、心の病という雑草は根を張ることが出来ないからだ。



以前にも何度も書いたことではあるが、私の母は在日韓国人である。貧しい家庭に育ち、若い頃から満足な就職も出来ず、今も選挙権もなく、本名を名乗ることもなく暮している。私自身、何もない古いアパートから生まれ育ち、若い頃からいろいろなことを考えて暮していた。と言っても、どうすればこの私がその境遇から抜け出せるかということだけを考えて暮していたわけではない。もし、私が、そんなことだけを考えて暮していたら、ただの個人主義者になっていただろう。そうではなくて、私は、むしろ、どうすれば差別がなくなるのか、どうすれば日韓の友好が実現できるか、どうすれば祖国統一が果たせるかを考えて暮していた。


そう言うと、ある人は、「それで、お前は、どんな立派な成果を生んだのか」と問うかもしれない。それに対して、私は十分な回答をすることが出来ない。しかし、今になって考えてみると、若い頃にこういうことを考えて暮していたのは、少なくとも、自分にとっては幸せなことだった。何故なら、それらのことを考えている間、私は、個人的なことで悩まされることがほとんどなかったから。



話を戻すけれども、今日の日本のような成熟した社会においては、社会について考えることは極めて少ないだろう。少なくとも、幕末の時代や、太平洋戦争中や、全共闘の時代に比べれば、社会的なことについて考えることはずっと少ないだろう。あったとしても、そんなに深刻に考えたりはしないだろう。そんな今の日本の社会においては、個人主義が増加するのは必然的なことだろう。それゆえに、社会全体に個人主義的な考えが肯定的に氾濫するだろう。例えば、テレビのドラマにしても、雑誌の記事にしても、個人主義的な観点で作られたものが圧倒的多数を占めるだろう。やがて、私たちは、それらを話題にしなければ、お互いにそれらの話題についていけなくなるだろう。個人主義が当たり前とされる世の中では、個人主義を肯定しなければ、円滑な人間関係が営めなくなるだろう。個人的なことを考え、個人的なことで悩み、個人的なことを相談して、個人的な交際を維持する。ますます個人のことしか考えなくなり、個人的な悩みはその人の心の中でどんどん拡大していく。そして、知らないうちに、心が蝕まれていく。


自分について悩むのは、社会について悩むよりも、ずっと苦しいことだ。何故なら、その問題は自分自身の心の中にあり、誰もそこから逃げ出すことが出来ないのだから。もし、ある社会において、内戦が起こったら、国外に逃亡することも出来るだろう。しかし、人間は、心の中にある個人的な問題から逃げ出すことは出来ない。そして、あなたの個人的な悩みを理解してくれる人は多くはないだろう。何故なら、あなたの心の中にあるものを、他人は知りえないのだから。


社会問題に取り組む人は幸せだ。

彼らは多くの人と苦楽をともにすることが出来るのだから。

それは案外楽しいことなのではないだろうか。


個人的な問題に取り組む人は不幸だ。

彼は一人ぼっちでそれに取り組まざるをえないのだから。

それは苦しいことではないのか。


苦しいことが多い人は、一度自分の心の中を見つめなおしてみてはどうだろうか。ちょっとした心の転換で、ずっと楽になれるのではないだろうか。あなたの心の病の温床は何なのか、一度見直してみてはどうだろう。もしかしたら、その正体は個人主義にあるのではないだろうか。



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