弱音と格差の関係についての、言葉のスケッチ。

いずれまた、リファクタリングする予定。



たとえ話をひとつしよう。


関東のある大学に二人の大学生、AさんとBさんがいた。


Aさんは関東出身で、父親は一流企業に勤めており、実家は持ち家だった。


それに対して、Bさんは地方出身で、父親はブルーカラーで、実家は古い借家だった。


ふたりは同じ会社に就職したが、その会社は二人にとって面白い会社ではなかった。


Aさんはある日すっぱりと会社を辞め、大学以来住み慣れた下宿を引き払い、関東にある実家に帰り、親元で半年かけて、じっくりと再就職活動をした。


そして、彼は自分が思うとおりのよい会社に再就職した。


それに対して、Bさんは東京で一人暮らしをしていたので、実家に帰ることが出来ず、今の会社に勤めながら、時間をやりくりしつつ再就職活動をしていた。


そして、少ない時間の中、別の会社に再就職したが、入ってみると、思ったとおりの会社ではなく、かえって前の会社より待遇が悪くなってしまった。


Bさんはひどく後悔した。


そんなある日、二人は飲みに行った。


二人はお互いの再就職について語り合った。


すると、Aさんの方がBさんよりも良い再就職をしていることがわかった。


それで、もう一度再就職をしようと考えていたBさんはAさんに再就職のコツを尋ねた。


すると、Aさんは自分がいかに上手く再就職をしたかについて、いろいろと自慢げに語って聞かせた。


いかに慎重に時間をかけて面接対策をしたか、就職活動中毎日何時間もかけてスキルアップをしたか、自分が面接でいかに自分を上手く売り込んだか、どれだけたくさんの先輩に会って情報収集に当たったか、そんな話をあれこれ聞かせた。


すると、その話を聞いていたBさんは、ようやく自分とAさんの置かれていた立場の違いに気がついた。


そして、言った。


「なあんだ。君がいい会社に再就職できたのは、君の実家が関東にあったからじゃないか。


再就職中、君が自宅に引き払って、両親のスネをかじってたからじゃないか。


君が自慢げに語るから、どんなにすごい努力をしたのかと思ったら、そんなことだったのか。


僕だって、両親の実家が関東にあったら、あんな会社はさっさと辞めて、親のスネをかじって、実家に篭って、時間をかけて就職活動をしたさ。


ああ、僕も関東に生まれたかったもんだね。」


すると、AさんはBさんの意見に腹を立てて言った。


「何を言ってるんだ。関東出身かどうかなんて、小さなことだよ。


君の再就職が上手くいかなかったのは、君の努力が足りなかったからだよ。


それを棚に上げて、生まれ育ちの違いにしてるようでは、君は、いつまでたっても再就職なんて上手くいくわけがないよ。


だいたい、僕は、君のように、すぐ弱音を吐くような奴は大嫌いだ。」


結局、AさんとBさんはケンカ別れをした。



人間社会において、上のようなやり取りってよくあるんじゃないだろうか。


わりと恵まれている人と、わりと恵まれていない人の、僅かな差を巡っての感情的な主張の応酬。



ついでに言えば、上のような話をすると、人によっては、自分はAさん派だとか、Bさんの気持ちがわかるとか、逆にBさんみたいな考え方をする人は嫌いだとかといった意見が必ず出てくる。


それらの意見に対して、僕自身の意見を先に言うと、Aさんも、Bさんも、あるいは、いずれかに対する共感者も、反対者も、精神の成長がまだある段階にとどまっていると思う。


人間の理想を言うならば、結局、自分がどちらの立場にあったとしても、動揺しない精神の持ち主であることが大切なのではないかと思う。



弱音に対する人間の精神的な段階には、次の4種類がある。


1.いまだに弱音に縁のない人(弱音に接したことのない人)

2.弱音を吐く人

3.弱音を毛嫌いする人

4.もう弱音に縁のない人(弱音を克服した人)



ここで、2.と3.は弱音ということに関して言えば、どちらも精神の発達において、途上の状態にある。


そして、上のたとえ話をもう一度思い出してみると、以下のようにいえるかもしれない。


「弱音を吐く人」とは、「自分と自分よりも有利な立場にある人を比較して嘆く人」。

「弱音を毛嫌いする人」とは、「自分と自分よりも不利な立場にある人を比較したがらない人」。


弱音を毛嫌いする人は、おそらく、ある部分において恵まれた立場にある人なのではないだろうか。

しかし、本人にとっては、それは普通のことであって、自分が今よい思いをしているのは、自分自身の努力の賜物なのだ。

この人にとって、自分よりも不利な立場にいる人の存在を知ることは、なんとも苦痛である。

何故なら、その相手の立場と、それによる相手の不運な結果を認めるということは、間接的に、自分が有利な立場におり、自分が成功できたのはその立場を利用したからに過ぎないということを認めることになるからだ。

だから、彼は自分と自分よりも不利な立場にある人を比較したがらない。

また、その比較をせざるを得なくなるような、相手の弱音はぜひとも聞きたくないのだ。


容姿の美しい人は、容姿の醜い人のモテない愚痴話を聞きたくないだろう。

金持ちの家の子供は、貧しい家の子供のおもちゃを買ってもらえない話を聞きたくないだろう。

親のコネで人気企業に就職した人は、就職がうまくいかない、コネのない人の苦労話を聞きたくないだろう。


AさんもBさんも相手の事情を知るまでは、自分の置かれている立場に何の疑問もなかった。

しかし、自分と異なる立場の人の存在を知って、その人と自分を比べた途端に、お互いの精神に動揺が起こってしまった。

Bさんは以前よりもはっきりと弱音を吐き、Aさんはそれまで認識していなかった不快感を覚えた。

そう考えてみると、結局のところ、AさんもBさんも、いまだに人間的な修養が足りないように思う。


一般に、人間は、より良い思いをしたがる。

上のたとえ話で言えば、Aさんの立場にある人であれ、Bさんの立場にある人であれ、出来るならば、Aさんの立場に立ちたいと思う。

そして、そうなれることが幸福なことなのだと考える。

しかし、実際のところ、優位な立場に立つということは、幸福なことというよりは幸運なことである。

上のたとえ話で言えば、Aさんは幸運の人であって、幸福の人ではない。

他人の言葉に心をかき乱されるような人を幸福な人と呼べるだろうか。



本当に幸福な人と呼べるのは、その人が、Aさんの立場にあろうと、Bさんの立場にあろうと、心を乱されないでいられる精神を手に入れている人だ。


つまり、以下の人だ。


4.もう弱音に縁のない人(弱音を克服した人)


これが、仏陀の言う、「激流を渡り終わった人」、つまり、「彼岸に達した人」である。



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