嫌なことを言う人は嫌な人である。


嫌なことを言われて、嫌なことを言い返す人は、嫌な人である。


嫌な人でない人は、他人から嫌なことを言われると、きょとんとする。


嫌なことを言われて、反射的に嫌なことを言い返す人は、最初から嫌な人である。



以下、「嫌なことを言われて、嫌なことを言い返す人は、嫌な人である」についての寓話。


参考:
【随筆】無垢への憧れ
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10052848369.html




あるところに、A子さんとBさんという若いカップルがいた。


ある日、A子さんがBさんに以下のようなメールを送った。


「Bさん。私はあなたを愛しているわ。」


ところが、悲劇が起こった。


メール送信の途中で、悪意を持った第三者のCさんが彼女のメールを傍受したのである。


CさんはA子さんのメールを盗み見ると、いたずらでその文面を以下のように改竄して、Bさんに送った。


「以前から言おうと思っていたんだけど、私にはあなた以外に好きな男性がいます。


もうあなたとはお別れです。


さようなら。」


それを読んだBさんは一瞬びっくりしたが、これはチャンスだと思って、以下のように返事をした。


「実は僕も前から君以外に好きな女性がいて、君とは分かれたいと思っていたんだ。


浮気していたのはお互い様だから、恨みっこなしで、分かれよう。


僕から君に連絡したりしないから、君も僕に連絡しないでね。


さようなら。」


A子さんはこのメールを読んでびっくりした。


そして、インターネット業者や警察に相談したところ、自分のメールが改竄されていたことが分かった。


しかし、それに対して、Bさんからの返事は改竄されていないことが分かった。


A子さんとBさんは別れた。



あるところに、Dさん、Eさんという友人がいた。


Eさんは自分の背が低いことについて悩んでいた。


そこで、ある日、Eさんがその悩みを相談するメールをDさんに送った。


Dさんはそれを読んで、Eさんを慰め、励ますメールを送った。


しかし、そのメールもCさんに傍受されてしまい、悪意を持って改竄したメールがEさん宛に送られた。


その改竄メールは、DさんがEさんの背が低いことをからかう内容だった。


それを読んだEさんはDさんに対して腹を立てて、Dさんを非難するメールを返信した。


「お前は俺にそんな酷いことを言うのか!


それなら言うが、お前の方こそ、ただのデブじゃないか。


前から思っていたんだが、お前が部屋に入ってくるだけで暑苦しくなるんだよ。


自分のことを棚にあげて、よくも人のことをチビだの何だのと言えたもんだ。


もうお前とは絶交だ。


さよなら。」


Dさんはこの返信メールを読んでびっくりした。


そして、インターネット業者や警察に相談したところ、自分のメールが改竄されていたことが分かった。


しかし、それに対して、Eさんからの返事は改竄されていないことが分かった。


DさんとEさんは絶交した。



さて、上のような状況において、悪いのは以下の2者である。


1.他人のメールを傍受し、改竄して送るような悪質ないたずらをしたCさん。


2.浮気をしたBさんや、Dさんのことを悪く思っていたEさん。



ここで重要なことがひとつある。


それは、BさんやEさんが起こした問題は、Cさんが起こした問題とは、何の関係もないということである。


Cさんがメールを改竄したことで、Bさんは浮気をしたのではない。


BさんはCさんが改竄メールを送る前から浮気をしていたのである。



これはEさんの場合も同じである。


EさんはCさんの改竄メールに騙されて、思わず、Dさんへの悪口を口走ってしまったのだが、そこで語られていること、つまりEさんがDさんに対して前から思っていたことは事実であり、それはCさんの改竄メールとは何の関係もない。


Eさんは、前から、内心では、Dさんのことを「ただのデブだ」と思っていたのである。


それが、たまたまCさんの改竄メールをきっかけにして、表面化したに過ぎない。



私たちは、他人のと付き合いにおいて、上のような行き違いから、憎み合うことがある。


しかし、その憎しみ合いにおいて、重要なことは、お互いの憎しみは相手の憎しみとは直接関係がないということである。


より正確に言うならば、憎しみ自体は、憎しみに対する反動なのかもしれないが、そこで明らかにされる失言の中に含まれる、相手に対する潜在的な侮蔑は、表面化している憎しみとは直接関係がないのである。


ウィトゲンシュタインが言うように、「私は『にんじんが体に悪い』ということを信じている」という命題が真か偽かについては、「私が信じているかどうか」が問題なのであって、事実として「じんじんが体に悪いかどうか」は真偽に関係がない。


同じように、ある人が騙されて、あるいは勘違いをして、他人に腹を立てるとき、「腹を立てる感情」と「腹を立てる理由」は、実は関係がない。


腹を立てる理由が正当かどうかに関係なく、腹を立てる感情はそこに存在する。


逆に、腹を立てる感情がどうであれ、腹を立てる理由はそこに存在する。


「にんじんが体に悪いかどうか」という科学的な検証は、「『にんじんは体に悪い』と信じ込んでいる人間」にとっては、何の役にも立たない。


ある人が他人から嫌なことを言われて、腹を立て、嫌なことを言い返す場合、後者の嫌なことは最初から存在していたのである。





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// 憎しみにおいて、重要なことは、「誰のせいで憎んでいるのか」ではなく、「誰が憎んでいるのか」である。