普遍とは何か。


不滅とは何か。


この世に普遍なものや不滅なものはあるのか。


あるとすれば、何が普遍で、何が不滅なのか。


この問いに正しく答えられる人はいるだろうか。



私は、それはものの性質によるだろうと思う。


例えば、芸術上の創作と学術上の発見と工学上の発明と宗教上の真理では普遍や不滅のあり方が異なるように思う。



例えば、こんなことを考えてみる。



最初に、芸術上の創作について。


あるところにタイムマシンがあったとしよう。


私がそれに乗って過去へ行き、例えば、小さい頃のレオナルド・ダ・ヴィンチを殺したとしよう。


すると、世の中はどうなると考えられるだろうか。


私は、以下の二つのことを考える。


1.「偉大な芸術家として知られるレオナルド・ダ・ヴィンチの名前はこの世から消えてなくなるだろう。」


もし1.のとおりであるとするならば、彼がのちに描くはずだった名画『モナリザ』はどうなってしまうのか。


2.「おそらく、この名画も彼の名前と共に消えてなくなるだろう。」



では、次に、学術上の発見について。


あるところにタイムマシンがあったとしよう。


私がそれに乗って過去へ行き、例えば、小さい頃のコペルニクスを殺したとしよう。


すると、世の中はどうなると考えられるだろうか。


私は、以下の二つのことを考える。


1.「偉大な物理学者として知られるコペルニクスの名前はこの世から消えてなくなるだろう。」


もし1.のとおりであるとするならば、彼がのちに発見するはずだった地動説はどうなってしまうのか。


これは、以下のように、創作の場合と違う結果になるだろう。


2.「仮にコペルニクスが小さい頃に殺されたとしても、いつかどこかで誰かが、彼の代わりに地動説、すなわち、太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽の周りを回っているのだという事実を発見しただろう。」


これは、著名人としてのコペルニクスは地動説によって知られるが、地動説自体はコペルニクスによらなくてもこの世に存在し得るのだということを意味している。


これは、ニュートンと万有引力、ダーウィンと進化論、アインシュタインと相対性理論、などなどについても、同じことが言えるだろう。


(実際には、もう少し考えるべきことがあるが、これについては次回に触れる。)



では、次に、工学上の発明について。


あるところにタイムマシンがあったとしよう。


私がそれに乗って過去へ行き、例えば、小さい頃のグラハム・ベルを殺したとしよう。


すると、世の中はどうなると考えられるだろうか。


私は、以下の二つのことを考える。


1.「偉大な発明家として知られるグラハム・ベルの名前はこの世から消えてなくなるだろう。」


もし1.のとおりであるとするならば、彼がのちに発明するはずだった電話はどうなってしまうのか。


これは発見の場合と大体同じ結果になるだろう。


2.「仮にグラハム・ベルが小さい頃に殺されたとしても、いつかどこかで誰かが、彼の代わりに電話を発明しただろう。」


実際、エジソンはグラハム・ベルとほぼ同じ時期に独力で電話を発明している。


これは、もし仮に私がグラハム・ベルを殺したとしても、結局は、電話は発明されていたということを示している。


ただ、発見の場合と違い、仕様などについては、まったく同じものにはならないかもしれないが。



では、最後に、宗教上の真理について。


あるところにタイムマシンがあったとしよう。


私がそれに乗って過去へ行き、例えば、小さい頃のゴータマ・シッダールタ(仏陀)を殺したとしよう。


すると、世の中はどうなると考えられるだろうか。


私は、以下の二つのことを考える。


1.「偉大な宗教家として知られるゴータマ・シッダールタの名前はこの世から消えてなくなるだろう。」


もし1.のとおりであるとするならば、彼がのちに開くはずだった仏教はどうなってしまうのか。


私はこう思う。


2.「もし、仏教において唱えられていることがこの世の真理であるのならば、それと同じことはいつかどこかで誰かによって唱えられるだろう。」



いろいろな宗教の教義を聞き比べてみると、比較的に似た考えに出会うことがある。


例えば、初期の仏教の経典に出てくる仏陀の言葉と、新約聖書の福音書に出てくるイエスの言葉には似たものが多い。


これは、どちらかが、どちらかの真似をしたということではなくて(注)、それが本物の真理だからだろう。


要するに、仏陀がいなくても、イエスが同じようなことを言っただろうし、イエスがいなくても、仏陀が同じことを言っただろうということだ。


別の言い方をすれば、仏陀がいなければ、多くの仏教徒がキリスト教徒になったかもしれないし、イエスがいなければ、多くのキリスト教徒が仏教徒になったかもしれない。


(注:西暦前数百年に生まれた仏陀と遅くとも紀元前2世紀以前には成立していたと思われる初期の仏教の経典(スッタニパータ、ダンマパダ、ウダーナヴァルガなど)が、西暦元年頃に生まれたイエスの影響を受けたことはあり得ないが、その逆は不明である。一方において、西暦紀元後に生まれた大乗仏教の経典やその作者が、キリスト教の影響を受けたのではないかということを、ルドルフ・シュタイナーやカルマン・ベックは指摘している。この件については、別途、書きたい。)



「臨済録」に以下の有名な言葉がある。


「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得、物と拘らず、透脱自在なり。 」


(『臨済録』 示衆)


「仏を殺す」とはいかなる意味か。


それは、


「自分が悟りを開くためなら、いざとなれば、仏陀でさえも殺してもかまわない」


という意味ではなくて、


「仏陀とか、法華経、極楽浄土、真の~、聖なる~、などの表面的な名称をありがたがっているようでは、いつまでたっても悟りは開けない」


という意味だろう。



(以下、続く)



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