この世に正直な人はいるだろうか。


正直な人を以下のように定義するとき、私はいないと思う。


正直な人:=生まれて一度も嘘をついたことのない人。


結局のところ、正直な人というのは、観念的なものであって、現実の人間に対して適用するものではないのだろう。


では、善い人や悪い人はどうなのだろうか。


この世に善い人はいるだろうか。


以下、それについて考察してみる。


ある人は、善い人について、以下のような疑問を感じるかもしれない。


「ある善い人が、後に悪いことをしたら、その人はその時点で善い人ではなくなるのだろうか。」


つまり、


「『善い人』は永遠の存在であるのか、ないのか。」


これは、以下の疑問と同じである。


「『タクシーの運転手』とは、『タクシーを運転している人』のことだろうか、『タクシーを運転する人』のことだろうか。」


つまり、


「『タクシーの運転手』がタクシーを降りているとき、その人は『タクシーの運転手』ではなくなるのだろうか。」


あるいは、


「私の父親は永遠に私の父親だが、私の恋人は別れたら恋人ではなくなる。善い人は父親のようであるか、恋人のようであるか。」


あるいは、


例えば、運転免許証は交通違反をすれば取り上げられるし更新期限を過ぎれば失効するのに対して、東大卒という肩書きはその肩書きを持つ人が盗みを働こうが殺人を働こうが永遠になくなることがない。


そういう意味で、『善い人』という肩書きは、運転免許証のようなものだろうか、それとも学歴のようなものだろうか。



上の問題に答えるために、以下のように考えてみよう。


善い人についての捉え方は2種類ある。


1.善い人は静的である。


2.善い人は動的である。


善い人を静的に考えるならば、人間は生涯において一度でも善いことをしたことがあれば永遠に善い人である。


善い人を動的に考えるならば、人間は善いことをしている間だけ善い人である。


さて、上のふたつの捉え方は、どちらが適切だろうか。



このどちらに考えるかによって、例えば、以下の問題に対する答えも違ってくる。


「善いことと悪いことをした人は、『善い人でもあり悪い人でもある人』なのだろうか。それとも、『善い人でも悪い人でもない人』なのだろうか。」



善い人や悪い人を静的に捕らえるのならば、以下のように言える。


善いことをしたことのある人は善い人である。


悪いことをしたことのある人は悪い人である。


人は善いことも悪いこともすることが出来る。


であるから、以下が成り立つ。


善い人 ⊇ (善い人 ∩ 悪い人)


また、


悪い人 ⊇ (善い人 ∩ 悪い人)


これは以下のことを意味している。


善いことと悪いことをした人 = (善い人 ∩ 悪い人) = 善い人でもあり悪い人でもある人


つまり、人間は善いことをしたことがあれば、悪いことをしても善い人でなくなることはない。


であるから、以下のように言える。


「人間はその生涯において、一度でも善いことをすれば、生涯善い人である。悪い人でもあるかもしれないが。」



それに対して、善い人を動的に捕らえるのならば、以下のように言える。


まず、


「人間は善いことをしている間だけ善い人である。」


のだから、


善いことと悪いことをした人は、善いことをしていたときは善い人だったし、悪いことをしていたときは悪い人だった。


(人間は善いことと悪いことを同時にすることもあるが。)


であるから、以下のように言える。


「生涯善いことをし続けてきた人でも、一時間のんびりしていたら、その間、その人は善い人ではない。」


しかし、この考え方は以下のような疑問を生む。


「善いことをしている間だけ善い人と呼ばれるのならば、


悪いことをしている間だけ悪い人と呼ばれるのだろうか。」


例えば、ある人が殺人を犯したとしよう。


そのとき、その人が殺人を犯している最中は悪い人だが、それが終わったら悪い人ではなくなるのだろうか。


これについては、以下のように考える方が現実的である。


ある人が悪いことをして、その利益を得たのならば、その利益を所有する間、その人は悪い人である。


例えば、保険金殺人をした人が、その保険金を着服している間は悪いことをしているのと同じである。


もっと言えば、その人が逮捕されて、裁きを受けて、罪を清算するまでは悪いことをしているのと同じである。



いずれにしても、善い人、悪い人というのは、あくまでも人間についての観念的なモデルであって、現実の人間に対して適用するのは無理があるように思う。


新約聖書においても、以下のようなやり取りが出てくる。


イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。
And when he was gone forth into the way, there came one running, and kneeled to him, and asked him,


「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
Good Master, what shall I do that I may inherit eternal life?


イエスは言われた。
And Jesus said unto him,


「なぜ、私を『善い』と言うのか。神お一人のほかに、善い者は誰もいない。」
Why callest thou me good? there is none good but one, that is, God.


マルコによる福音書 10 17-18



善い人は誰もいない。簡単な結論だ。



ところで、私は、以前、以下のように書いた。


【人生】感心すれど、感謝せず
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10036935619.html


この文章の趣旨は以下の通りである。


「感心される人ではなく、感謝される人になりなさい。」


「感謝される人」になるのは、「善い人」になるのに比べると、極めて負いやすい軛(くびき)である。


何故なら、「善い人」が極めて観念的、理想的であるのに対して、「感謝される人」は現実的であり、誰でも成りうるからだ。


実際、生まれてから一度もうそをついたことがない人がいないように、生まれてから一度も感謝されたことのない人はいないだろう。


人間にとって、「善い人」であるのは至難の技だが、そのときどきにおいて他人に親切にして感謝される人になるのはそれほど難しいことではない。


善い人であろうとしてなりえず悩むぐらいなら、まず感謝されるような親切な人になればよいのではないだろうか。



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