2007-10-08 18:36:43
【随筆】ピアノのないピアニスト


小さい頃、僕はたくさんの友達と毎日楽しく遊んでいた。


しかし、いつ頃からだろうか。


知らないうちに、周りの人たちとの付き合いがうまくいかなくなってきた。


その理由も分からないうちに、青春時代が過ぎてしまった。


しかし、最近になってようやく分かってきた。


考えてみれば、僕が周りの人たちとの付き合いが上手くいかなくなった原因は、僕が10代の頃から考えごとにふけるようになったからだ。



10代の初めの頃、僕は考えごとにふけるようになった。


一人で考えごとをしていると楽しかった。


僕は、毎晩、思索の森を探検していた。



同じ頃、僕は思春期を迎えた。


僕はある女の子を好きになった。


その子と付き合えたらいいなあと思った。


おそらく、周りの男たちもみなそう思っていただろう。


その子は、ギタリストと付き合っていた。


結局のところ、特技のある男がもてるのではないかと思った。


では、僕の特技とは何か。


それは考えごとをすることだった。


しかし、この考えごとというのは、いくら考えても、本人が口にしない限り、他人にその成果は見せられない。


考えごとは夜寝ているときに見る夢に似ている。


どんなに美しい夢や楽しい夢を見ても、他人にそれを見せることは出来ない。


話して聞かせたところで、ああそうと言われるだけのことだろう。


僕はその女性が他の男性と楽しく付き合っているのを、遠くから見ているだけだった。


かわりに、僕は毎晩遅くまで布団の中で考えごとをしていた。


考えごとをすると、頭が冴えて、眠ることが出来なかった。


何時間も、布団の中をごろごろしていた。



20代になって、僕はある女性と付き合い、暮し始めた。


その頃、僕は毎日楽しかった。


一人で考えごとにふけっては、いろんなことに気付いたし、


彼女といるときには、彼女と楽しく過ごしていた。


しかし、今になって考えてみると、その頃、彼女は僕ほど面白くなかったかもしれない。


何故なら、僕がどんなことを考えても、彼女にはそれを知ることが出来なかったから。


僕と彼女はお休みの日にあちこちに出かけた。


出かけるときはいつも電車だった。


乗っている間、目的地につくまで、僕は考えごとをしていた。


だから退屈しなかった。


しかし、隣にいた彼女はずいぶん退屈だっただろう。


今考えると、申し訳ないことをした。



思うに、考えごとをする人は、ピアノのないピアニストに似ている。


ピアノのないピアニストは頭の中でピアノを弾く。


本人はそれでいいのだろうけれども、周りの人は誰もその演奏を聴いて感動することがない。


思えば、僕は10代の頃から、ずっとピアノのないピアニストだった。


僕はいつも頭の中でピアノを弾いていた。


好きな女の子を見つめているときも、彼女と二人で暮しているときも。


彼女も友人も家族も誰も僕のピアノの演奏を聞いたことがない。


ときどき、僕が突拍子もないことを言って、周囲を唖然とさせることがあったぐらいのものだ。


だから、周りの人たちから見れば、僕はただの変わり者でしかなかっただろう。



そんな僕が、ようやくひとつのピアノを手に入れた。


それがこのブログだ。


僕は、今日まで、25年間、頭の中で考えごとというピアノを演奏していた。


そして、今、ブログに向って、毎晩、演奏をしている。


初めて、他人の見ている前で。



想像がつかないのだけれども、最近、僕の演奏を、毎晩、聴きに来てくれる人たちがいる。


また、前からずっと愛読しています、とメッセージをくれる人たちもいる。


僕の演奏はまったくの我流だけれど、まるっきり音程の外れたものではないようだ。


考えてみると、僕は今まで人から応援されたことがなかった。


だから、この気持ちはこれまでにはなかったものだ。


今のところ、唯一残念なのは、読んでくれる人とお会いする機会がないことだ。


インターネットでは、こころで直接付き合うことが出来るが、逆に肉体を通しての付き合いが出来ない。


いつかお会いする機会でもあればよいと思うけれども。



この先、いつまで生きられるのか分からない。


何かの事故であっさり死んでしまうかもしれない。


いつか更新の途絶える日が来るだろう。


そのときまでに、書きたいことを書いておきたい。


そうしたら、死んでからも、読んでくれる人はいるだろうから。



虎が死んで皮を残すように、


ミュージシャンが死んで音源を残すように、


僕は自分の文章をこの世に記しておきたい。






2007-08-24 23:00:08
【随筆】心の薬は心の病に効くものです。


僕は毎日心の薬を作っている。


自分の心の病に効く薬を。


中にはずいぶん前に作ったものもあるし、中にはつい最近作ったばかりのものもある。


簡単に出来たものもあれば、長年かけてようやく出来たものもある。


それらは、いずれも自分自身が試してみて、何らかの効果があったと感じるものだ。



心の薬は、物質からではなく、言葉から作られる。


何故なら、心の病は言葉から作られたものだからだ。


言葉から作られた心の病は、同様に言葉から作られた心の薬で、駆除するのが一番よい。


他人の言葉を素材にすることもあるし、自分で言葉を見つけることもある。


言葉は組み合わせようによって、心の薬にも、心の毒にもなる。



ところで、これらの心の薬は、言葉から出来ているので、文書化して他人に提供することが出来る。


そこで、最近、僕はそれが出来ると、自分のブログに置いている。


もしかしたら、世の中には僕と同じ心の病にかかっている人がいるかもしれないし、


もしかしたら、その人にも、僕の作った心の薬が効くかもしれないから。


それで、僕は、「ご自由におとり下さい」という感じで置いているのである。


ただ、その服用は、各自の自己責任で行ってもらいたい。


僕は皆さんの服用に関して、何の責任も負えないのだから。



僕の作った薬は、もしかしたら、あなたの長年の心の病に効くかもしれないし、


もしかしたら、何の効果もないかもしれない。


あるいは、効いているようにみえて、実は単なる「痛み止め」の効果しかないのかもしれない。


それどころか、中には、とんでもない副作用のあるものもあるかもしれない。



さて、こうして自作した心の薬の客観的な効果が不明なとき、もっとも参考になるのが読者のコメントだ。


ある人たちが、僕の文章を読んで、「心が楽になった」、「読んでよかった」と言ってくれるのであれば、


その文章は僕以外の人たちにも何らかの効果があるのかもしれない。


自作した心の薬が、自分以外の人にとって効果があるかどうかは、


結局のところ、ある程度以上の症例データから判断するしかない。


読者の皆さんを実験台にするわけではないけれども。



というわけで、コメントを書いてくださる方、いつもありがとう。


あなたに平安がもたらされ、副作用が出ないことをお祈りしております。



最後にもうひとつ。


あなたにとって効果のあった心の薬の服用を、あなたの知人に強要しないように気をつけてください。


頭痛持ちの人にとって、よく効く頭痛薬はありがたいものなのかもしれないけれども、


頭痛がしない人にとって、それは何の用もないのだから。


その知人が、そのうち、必要になることもあるかもしれないけれども。






2007-11-12 23:49:59
【随筆】物思う人人


今日も仕事だった。


今週は何もなく退屈だ。


この退屈な状況はいつまで続くのだろうか。


なんとなく仕事が終わり、夜空の中を駅まで歩いた。


最近、大分寒くなってきた。


夜道を歩きながら、僕は、ふと、稲垣足穂を思い出した。


僕は、大学の頃、足穂が大好きで、毎日のように夢中になって読んでいた。


僕が足穂の作品の中で一番好きなのは以下の一節である。




「そして今宵、彼は小石川の坂上に立ち、いま幾年も過ぎてから、いったい自分は何処にあって今夜のことを思い出すのであろうと想像すると、かつてこの場所に思い屈して佇んだ人人、将来ここに歩をとどめて物思うすべての後継者と共に在る自分を感じないわけには行かなかった。」(弥勒)



大学時代、杉並区の下宿に住んでいた。


毎晩、一人で杉並の住宅街をぶらぶらと歩いていた。


大学に、顔見知りは何人かいたが、大学のキャンパス以外で彼らと遊んだ記憶はほとんどない。


僕は、毎晩、ひとりで近所を散歩しながら考えごとをしていた。


冬はシャツの上に半纏を羽織り、さらにジャンバーを着て歩いていた。


それでも冬の空気は冷たかった。


星が満天に広がり、僕の吐く息は白く、夜空に立ち上った。


大学時代、僕はよく日雇いのアルバイトをしていた。


あるとき、僕はある地下鉄駅の電気設備の清掃の仕事を得た。


それは夜中に行われる仕事だった。


その現場に行ってみると、そこは足穂の上の一節に出てくる小石川だった。


23時ごろから働き、真夜中の中途半端な時間に開放された。


始発までまだ大分時間がある。


地下鉄に乗る電車賃がもったいないので、僕はその間にJRの駅まで歩くことにした。


そして、駅の通用口から出て、JRの駅に向って歩いていると、ある下り坂に出た。


坂の上には星が瞬いていた。


僕はその小石川の下り坂を下りながら、上の足穂の一節を思い出した。


もしかすると、足穂はこの坂を歩きながら、上の一節を考えたのかもしれない。


ほとんど暗誦していたその文句を唱えながら、僕はその下り坂を歩いていった。


そして、歩きながら、僕もまた「いま幾年も過ぎてから、いったい自分は何処にあって今夜のことを思い出すのであろう」と想像した。


そして、足穂のような「かつてこの場所に思い屈して佇んだ人人」に思いを馳せてみた。


それから、「将来ここに歩をとどめて物思うすべての後継者」のことも考えてみた。


そして、最後に、そう言う人たちと、同じ種類の人間であるところの、自分のことも考えてみた。



そんなことを考えたあの日から、どれぐらいの時間がたったのだろう。


数えてみると、すでに10数年の歳月が流れている。


人生の時間が経つのはなんとも早いものである。


でも、僕は、今、何の不安もない。


結局のところ、自分はかつて在った人人と将来ここに在る後継者の人人の間に在って、彼らを繋ぐ役割はそれなりに果たせているように思うからある。






2007-08-18 19:05:42
【随筆】走らぬ名馬


太宰治のエッセイのタイトルに「走らぬ名馬」というのがありました。


どんな内容だったか、さっぱり忘れてしまいましたが、想像してみるに。


走らぬ名馬というのは、才能がありながら、それを発揮しない人じゃないかしら。


あるいは、気分屋の天才、怠慢な資格者ぐらいの意味かもしれない。



僕も、若い頃には、自分を走らぬ名馬だと心密かに思っていたような気がします。


自分は何か特別な存在だと思っていたのかもしれません。


しかし、この歳になって振り返ってみると、自分は普通の青年以外の何者でもありませんでした。


若者には、こういった根拠もない自信を持つ者が少なからずいるものですね。



ところで、その僕は、この歳になって、こんなことを考えてみます。


かつて、マーチン・ルーサー・キング牧師は「ボランティアに資格はいらない」といいました。


ボランティアをするのに、学歴も、特殊な能力も必要ないというのです。


確かにそのとおりですね。


東大卒でなければ、ボランティアが出来ないというものではないですから。



例えば、ある人が電車のシートに座っているとしますね。


で、その目の前に老人が立っているとしますね。


そのとき、その人は、その老人に席を譲ることが出来ますよね。


しかし、そんなときに、なんとなく譲り損ねてしまうということは誰にでもあるでしょう。


そういうとき、私たちは「走らぬ名馬」なんじゃないかしら。


「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉がありますね。


結局、「義を見てせざる人」は、みな「走らぬ名馬」なんじゃないかしら。



そう考えてみると、世の中には「走らぬ名馬」がたくさんいますね。


「走らぬ名馬」の牧場が出来そうです。


そう言う僕も、この間、走り損ねたんですけれども。



今日、葉山の浜辺を歩きながら、何かそんなことを考えました。






2007-08-22 22:44:50
【随筆】批評家は何を生み出しているのでしょうか


ミュージシャンの早川義夫さんの歌に「批評家は何を生み出しているのでしょうか」と言うのがある。


また、稲垣足穂のエッセイのタイトルに「評論家を待たない」と言うのがあったように思う。


総体において、批評家、評論家というのは、創作家に嫌われるものだ。


僕自身、小さい頃からモノを作るのが好きだった。


そのせいか、僕も昔から評論家と呼ばれる類の人が苦手だ。



小さい頃、僕は幼稚園の砂場で泥団子を作ったり、砂山を作ったりするのが好きだった。


ところが、こちらが気持ちよく砂山を作っていると、必ずそれに批評を加えてくる者がある。


「その砂山、ここに橋を架けるといいよ。ここに穴を開けるといいよ。」


僕はその手の助言は要らないので、たいていの場合、こう言った。


「そう思うんだったら、君がそのとおりに作るといいよ。」


そう言うと、彼はその場からいなくなって、そのあたりをぶらぶらするんだけれども、しばらくして戻ってくる。


で、こちらが知らぬうちに、いつの間にか、僕の砂山に穴を開けたり、橋を架けたりしている。


僕は唖然とした。



その後、僕は大学生になった。


同級生でA君というのがいた。


このA君は三島由紀夫とニーチェが大好きだった。


で、困ったことに、A君は(僕の苦手な)評論家肌だった。


僕や他の人が言ったことにいちいち反応し、その都度、「僕はそう思わない」と切り出すのだった。


僕はなるべくA君を取り合わないようにしていた。


きりがないからだ。



ところで、この歳になって振り返ってみて思うんだけれども、世の中には評論家タイプと呼ばれる人がいる。


評論家タイプの人は、ある種の人たち、つまり創作的な人たちから嫌がられるわけだけれども、僕は、最近、このタイプの人たちに対して、ある種の理解が得られたきたような気がする。


僕は、世間的に「評論家タイプ」と呼ばれる人には、2種類あるように思う。


ひとつは、本当の評論家タイプ。


もうひとつは、評論家でありながら、評論家になりきれないタイプ。


後者は何かと言うと、他人の創作物を見て、あれこれ評論しながら、最後には、結局、「僕ならこうするのに」と言ってしまう人。


「僕ならこうするのに」と思いながら、そう出来ない人。


それが、評論家タイプでありながら、それに徹することが出来ない人だ。


そして、それが、一番、創作家に嫌われる。


何故、彼らが創作家タイプに嫌われるのかと言えば、彼らが中途半端に創作家の聖域を犯すからだ。


そして、はっきりと言えば、このタイプは本当の意味での評論家でもない。


創作家にもなりきれず、評論家にもなりきれない人。


言葉を分けて言うならば、後者がいわゆる批評家なのかもしれない。


批評家とは、自分は動かずして、他人を動かすことによって、何かしらをなそうとする人だ。


世の中には、そう言う人が少なからずいるものだ。



ところで、真の評論家は、案外、創作家には嫌われないものだ。


何故なら、彼らはその分をわきまえているからだ。


真の評論家は評論に徹する。


彼らは「僕ならこうするのに」とは言わない。


本当にそう思うのなら、彼ら自身が自らペンを取り、自らメガフォンを執るだろうから。



上のようなことを考えてみるに、僕もまたタルホのように評論家は待たない。


何故なら、彼らはいなくても、僕はこと足りるからだ。


残念なことだけれども、創作家は評論家がいなくてもその仕事が成し遂げられる。


それが現実だ。



補足(挿入予定):


創作家と評論家の関係は、植物と草食動物の関係に似ている。


創作家は自分で栄養を作り出すが、評論家は栄養を捕食しなければ生きていけない。


だから、どうしても、評論家の方が創作家に対して、絡むことになる。


その際に、問題になる点がある。


まず、創作家にも、評論家にも、それぞれレベルというものがある。


そして、たいていの場合において、評論家は自分よりもレベルの高い創作家を狙いがちだ。


評論家は、自分よりレベルの高い創作家を批評することで、自分のレベルを引き上げようとする。


これは創作家の立場で見れば、常に自分よりもレベルの低い評論家から狙われることを意味している。


創作家にとって、自分よりもレベルの低い評論家による評論はそれほど得るものはないだろう。






2007-10-27 23:20:09
【随筆】無垢への憧れ


小さい頃、町内にRちゃんという女の子が住んでいた。


彼女は知的障害があって、視点が定まらず、いつも遠くを見ていた。


小さい頃のことなので、あまり意識していなかったが、今思い出すと、美しい顔立ちをしていたように思う。


Rちゃんとは幼稚園で知り合った。


何度か、体育やお遊戯などをした記憶がある。


小学校に上がって、Sくんという男の子と同じクラスになった。


彼も知的障害があって、やはりいつも黙って遠くを見ていた。


Sくんは妙なおかっぱ頭をしていたけれども、つぶらな瞳で、きりっとした顔立ちをしていた。


彼はいつも少し鼻水をたらしながら、にこにこと笑っていた。


ある夏の水泳の授業のあと、僕は着替えて教室に戻ろうとしたのだが、忘れ物をして更衣室に取りに帰った。


すると、Sくんがひとりいて、震えるようにして泣いていた。


「どうしたの。」


と聞くと、


「バスタオルがなくなった。」


と言う。


子供にとっては、バスタオルぐらいのものでも、なくすのは、けっこう問題だ。


それで、僕は彼と一緒にあれこれと探したが、見つからなかった。


その後、どうなったのか、思い出せない。


ただ、いつもにこにこ笑っている彼が泣いていたのでひどく驚いたことだけ覚えている。


思い出してみると、Sくんとは何度か同じクラスになったのに、一度も自宅で遊んだ記憶がない。
彼は何をして遊んでいたのだろう。
また、どんな友達と付き合っていたのだろう。
今頃になって、その疑問に気がついた。


その後、3年生か、4年生ぐらいのことだったと思う。


何故かそのクラスには、知的障害のある子が3,4人いた。


学校が意図的に同じクラスにしたのかもしれない。


あるときに、クラスのガキ大将たちが、冗談で、ある知的障害のある男の子に、別の知的障害のある女の子にキスをしろと命令していた。


その女の子と言うのはRちゃんだったような気がする。


それからどうなったのか思い出せないが、結局、それが先生の知られるところになった。


その後、授業は打ち切りになり、僕たち、知的障害のある生徒以外の生徒は全員、校舎の屋上に集められた。


そのときの件だけでなく、以前から彼らをからかうような雰囲気があったのかもしれない。


風の吹く屋上で、僕たちはじっと先生を待っていた。


しかし、いつまで経っても、先生は来ない。


どうしたものかなあ、と僕たちは話し合った。


まじめな学級委員長の女の子が屋上と職員室を行ったり来たりして、連絡役をしている。


そのうち、日が暮れてきた。


そのうち、誰かが、先生に誤りに行こうと言い出した。


で、僕たちは先生に誤りに行った。


そのとき、先生が何と言ったのか覚えていないが、僕たちは許しを得て、それぞれ、家に帰った。


しかし、今考えてみれば、謝る相手を間違えている。


本当に謝るべき相手は、知的障害のある子たちだろう。


要するに、僕たちは先生という権威のあるひとに、許してもらいたかっただけなのかもしれない。


何しろ、小さい頃のことだから、正しいことなんてどこにもない。


その後、高校受験、大学受験があって、その後、知的障害のある人とともに学ぶ機会がなかった。


大学時代に、社会福祉サークルに入っていたので、いわゆるダウン症の子供と接する機会はあったぐらいである。



今日、何故、上のようなことを書いたのかと言うと、この間、ふと、以下のようなことを考えてみたのである。


「今日まで自分が出会ってきた人たちの中で、一番心のきれいな人は誰だっただろうか?」


すると、何故か、ずいぶん昔に机を並べた、RちゃんやSくんのような知的障害のある人たちのことを思い出したのである。


知的障害者を「心のきれいな人」と解釈するのはあまりにも陳腐かもしれない。


しかし、今の僕はこの陳腐なものに対して、あえて取り組む気持ちでいる。


そもそも、僕たちは小さい頃から、陳腐だからという理由で、たくさんの大切なものに触れないで生きてきた。


この歳になって、僕はそのことを反省している。


世間的に陳腐であろうと、自分自身が消化し切れていない問題があれば、それはやはり取り組むべきものだ。


知的障害のある人は、人間が賢く生きていくための知恵が欠けているのかもしれない。
しかし、同時に、そういう賢い人たちが持ちがちな狡賢さも欠けているような気がする。
賢さと狡賢さを併せ持っている人間と、その両方を欠いている人間はどちらがよいのだろうか。



それにしても、僕は、今、東京で社会人として生活していて、ストレスの溜まることが多い。


それは何故かといえば、他人との付き合いがうまくいかないからだ。


うまくいかない原因は、自分と他人がやり取りをするうえで、相手の人が何を返してくるのかが分からず、不安になるからだ。


こちらの言葉一つで、相手を怒らせたりしはしないか、見えない報復が帰ってこないかと、僕たちはお互いに気を使ってしまう。


そうしたときに、今日までの人間関係を振り返ってみて、一番気兼ねをしなかったのが誰かといえば、Sくんのような知的障害のある人だったのではないかという気がするのだ。



世の中には、嫌な人っているものだ。
嫌な人とは嫌な言動をする人のことだ。
ところで、嫌な言動をする人が嫌な人であるのならば、他人から嫌なことを言われたり、やられたりした人が、仕返しに嫌なことを言い返したり、やり返したりする場合はどうなるのだろうか。


例えば、あるところに、Aさんという人がいたとしよう。


で、Aさんは大変嫌な人で、すぐに嫌なことを言ったり、やったりする人だとしよう。


あるとき、Aさんが、Bさんという人に対して、嫌なことを言ったとしよう。


すると、それに対して、Bさんが嫌なことを言い返したとしよう。


(しかし、Bさんは普段自分から他人に対して、自分から嫌なことを言ったり、やったりする人ではないとしよう。)


そのとき、Bさんは嫌な人ではないのだろうか。


つまり、「嫌な人」を「嫌な言動をする人」と定義するのならば、事情はどうであれ、嫌なことを言い返したBさんも「嫌な人」なんじゃないかしら。

それはちょうど、暴力を振るわれた人が、暴力を振るい返せば、正当防衛であれ、暴力を振るった人と呼ばれるのと同じことだ。

他人に暴力を振るわれて、何のためらいもなく暴力を振るい返す人が、暴力の人と呼ばれるように、他人に嫌なことを言われて、何のためらいもなく嫌なことを言い返す人は、嫌な人なんじゃないだろうか。


僕は思うのだけれども、普段は嫌なことを言わなくても、他人に嫌なことを言われて、反射的に嫌なことを言い返す人は、やっぱり嫌な人なんじゃないかしら。


その人は、普段、幸運によって、嫌なことを言ったり、やったりしなくて済んでいる立場にいるだけの話なのではなかろうか。


嫌な人は2種類ある。


1.積極的に嫌な言動をする人。


2.消極的に嫌な言動をする人。


で、世の中には、1.の人は少ないけれども、2.の人は案外に多いように思う。


いや、むしろ、世の中の大部分の人間は、2.に属するのではないかしら。


その上でさらに言えば、2.の人は、1.の人と紙一重のような気もする。


例えば、満員電車の中で、他人の肩が触れた、足を踏んだで、嫌な言動をする人はいくらでもいるからだ。


そして、結局、この積極的だか、消極的だか分からない嫌な言動が、今日の社会における我々のストレスの大きな原因のひとつであるように思う。


そうしたときに、僕はSくんのような人を思い出す。


何を言われても、決して嫌なことを言い返したりすることのなかった人たちのことを。


賢さは既知の過ちを正すが、狡賢さが未知の過ちを生み出してしまう。


疲れきてしまった僕は、今、とても無垢に憧れている。


最近、僕は神様に対してこう言いたくなるのだ。


「賢さはいらないから、狡賢さを取り除いてください。」



注:「精神薄弱」、「知的障害」などの言葉について、差別的であるかどうかの議論があるけれども、平成11年から法令上「知的障害」という用語が正式なものとなったそうなので、本文中もこの言葉で統一して記述した。






2007-10-01 20:48:35
【随筆】懐かしいところ


この間、母から電話がかかってきた。


再来週、長野に旅行に行くから、あなたも行こうという。


僕は気が進まなかった。


兄も来るという。


僕は兄にはここ10数年で1度しか会っていない。


10年近く前の、兄の結婚式で遠くから見たきりだ。



兄は普通の人だ。


両親も普通の人だ。


しかし、僕は、若い頃、長らく狂人だった。


僕は急速に自我に目覚め、その急激な膨張に耐え切れず、崩壊寸前だった。


今さら、どんな会話をすればよいのだろう。


僕はとても気が重い。


誰が悪いわけでもなく、僕自身が悪いのだが、僕は気が重い。


僕はどんな話をすればよいのだろう。


僕は誰の後ろに隠れればよいのだろう。



母から電話があった夜、僕は布団の中で小さい頃のことを思い出した。


僕は広島の小さな田舎町で育った。


小さい頃のある日、近所の畑がつぶされて、更地が出来た。


その更地は子供たちの遊び場になっていた。


ある日、その更地の上に、たくさんのパチンコ台が捨てられていた。


山のように積み上げられ、それが子供たちの遊び場になっていた。


ある夕暮れどき、僕はそのパチンコ台の山の上に上って、夕暮れを見ていた。


瑠璃色と茜色が混じり合う夕暮れに、銀色の星々がたくさん瞬き、涼しい風が吹いていた。


僕は、自分が今いつの時代に生きているのか分からなくなった。


僕は、いつの日にか、今日のことを思い出すのだろうと思った。


30年以上経った今日、僕はようやくそのことを思い出した。



それからしばらくして、そのパチンコ台は撤去された。


その後、その更地にはバッティングセンターが出来た。


開店当時、その見慣れぬ施設はちょっと垢抜けた感じがしたものだ。



それから30年が経った。


僕は久しぶりに帰省した。


もう両親は郊外に引っ越しており、家族の誰もその町には住んでいない。


しかし、懐かしさから、なんとなく町内を歩いていると、そのバッティングセンターが見えてきた。


そのバッティングセンターは古びており、もはやいつの時代のものか分からなくなっていた。


おそらく、今の子供には、それが出来た当時のことを想像することは出来ないだろう。



そのあと、僕は、昔自分が住んでいた家々を巡った。


僕は生まれてから、高校を卒業するまで、同じ町内に住んでいた。


最初はアパートに住み、その後、長屋へ引越し、それから古い小さな一軒家に住んだ。


それらを順にめぐってみると、すでにアパートと一軒家は取り壊されていた。


すでに、長屋しか残っていなかった。


長屋に行ってみると、岩崎某という女性が住んでいた。


その長屋も、真向かいの同型の長屋がすべて取り壊され、そこには倉庫が建っていた。


その倉庫は通路の半分にせり出し、僕が住んでいた長屋の玄関の戸は完全には開かないのではないかと思われた。


僕は幼稚園の終わりから小学校の元まで、そこに住んでいた。


そこは当時、釜の風呂があり、幼稚園児の僕は、毎晩、鉛筆の芯を抜いたような形をしたコークスを鉈で割って風呂を沸かしていた。


幼児の僕は、火をつけるのがちょっと怖かった。


ある日、僕は何本かの一升瓶を捨てようとして、玄関の前の通路で転んだ。


ガラス瓶が割れ、転んだ拍子にガラスの破片で膝をざっくりと切った。


そのときの傷は今も僕の左ひざに付いたままだ。



僕は、その家の外から、その中を想像して見た。


玄関の横には台所があり、そこでは若い頃の母が夕食を作っていた。


玄関の奥には階段があり、小さい僕は兄と一緒にその階段をそりで滑り落ちた。


父は居間に横になり、カラーテレビを見ていた。


その家の遠くないところには空港があり、夜、窓を開けると、満天の星空を誘導灯が鮮やかに照らし出した。


ある晩、父と母が窓の星空を見ていた。


僕はふたりの後姿を見つめてうとうとしていた。


懐かしい日々。



今、家族四人がそろうとどんなもんかしら。


一番年下の僕でさえ、最近、ずいぶん歳をとったものだと思う。


兄や両親においては、如何程だろうか。



でも、こういう機会はもうないのかもしれない。


考えてみれば、僕は若い頃ずいぶん我がままを押し通したものだ。


すべては自分個人の理想に通じていたが、それらは結局のところ何の役にも立たなかった。


家族は僕のことが理解できず、いつも困惑し、心配していた。


僕は大学時代、何年も実家に帰らなかった。


あの頃、僕はどうにかしていた。



今の僕は、小さい頃の無邪気だった頃の僕とは違うけれども、それでも、20代の頃の血気盛んだった頃の僕に比べれば、若干似ているかもしれない。


今の僕は、小さい頃の僕に、やや似ている。



今度、家族四人で食事をする。


おそらくこれが最後だろうけれども、僕はそのときをどきどきしながら待っているのだ。



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