好意と善意の違いは何か。
とりあえず、以下のように定義する。
好意:=好ましい人のためになろうとする気持ち
善意:=困っている人のためになろうとする気持ち
例えば。
ある男性がいて、会社の同僚で美しくて、とても親切な女性がいた。
その男性は、その女性のことを素敵だなあと思っていた。
そこで、クリスマスにささやかなプレゼントをした。
この場合、これは好意からの行為だろう。
次に。
ある男性がいて、道を歩いていると、ある中年男性が転んで怪我をしていた。
怪我をしたところが出血していたので、その男性はたまたまカバンに入っていた絆創膏をあげた。
この場合、これは善意からの行為だろう。
では、以下のような場合はどうだろうか。
ある男性がいて、道を歩いていると、ある美しい女性が転んで怪我をしていた。
怪我をしたところが出血していたので、その男性はたまたまカバンに入っていた絆創膏をあげた。
この場合、この男性の行為は、善意からのものだろうか、好意からのものだろうか。
さて、上の話とは別にして。
人間の「本心」は2種類ある。
ひとつは「真心」であり、もうひとつは「下心」である。
(本音と建前ではない。)
真心と下心はお互いに独立している。
そして、その人に、個別に命令を下す。
この両者の命令が食い違うとき、人はジレンマを感じる。
そうでない場合、人はジレンマを感じることはない。
しかし、それ故に、自分の本心が分からなくなることが起こりうる。
例えば、上の3番目の例において、その男性は、真心と下心の両方から、まったく異なる理由から、結果的に同じ命令を受けているかもしれない。
真心は、「転んで怪我して困っている人がいるから、その人のために、助けて上げなさい」と命じる。
下心は、「美しい女性が困っているから、お前のために、助けて上げなさい」と命じる。
その場合、その男性は、「その困っている美しい女性を助けること」については何の疑問も感じない。
しかし、その根拠(「その人のために」か「お前のために」か)についてはどうだろう。
僕は思うのだけれども、上のようなケースにおいて、世の中には2種類の人間がいるように思う。
1.自分の本心に疑問を感じる人。
2.自分の本心に疑問を感じない人。
後者は、心理学で言うところの「合理化」というやつかもしれない。
で、この後者のような人の中には、その人の人生において、大きな成功を掴む人がいるかもしれない。
すなわち、本当は自分の下心のために頑張っているのだけれども、本人の意識の上では他人に対する真心のために頑張っているということになっている人たちだ。
こういう人は、その人の人生において、喜んで、永続的に努力をし続けるだろう。
そして、その結果として、それなりの個人的な成功を掴むかもしれない。
しかし、その人の人生は、結局のところ、失敗のような気が、僕はする。
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