あるところに1人のお母さんと3人の息子がいた。


あるとき、息子たちが母さんに、パズルゲームのおもちゃが欲しいとねだった。


そこで、お母さんはそれぞれにひとつづつ買い与えた。


数日後、Aちゃんはそのパズルゲームで一生懸命遊んでいた。


Bちゃんはそのパズルゲームが難しくて、途中で放り出してしまった。


Cちゃんはそのパズルゲームが簡単すぎて飽きてしまい、放り出してしまった。


それで、BちゃんとCちゃんはお母さんの元に行き、こう言った。


「お母さん、この間買ってもらったゲーム、もう飽きちゃったよ。新しいのを買って!」


すると、お母さんは怒って言った。


「この間、買ってあげたばかりなのに、もう飽きちゃったの?


ホントにあんたたちは物を大事にしないんだから。


Aちゃんを見習いなさい!」


BちゃんとCちゃんは叱られて、しょげてしまった。



さて、上のお話において、お母さんから見たら、BちゃんとCちゃんは同じに見えたようだけれども、実際にはどうだろうか。


本人たちの立場に立ってみたら、その事情は全然違うのではないだろうか。


Bちゃんはともかくとして、Cちゃんがそのパズルゲームに飽きてしまったのは叱られるような悪いことなんだろうか。


むしろ褒められるべきことなんじゃなかろうか。


ついでに言えば、お母さんは彼らに対して、Aちゃんのことを褒めていたけれども、実際にはどうだろう。


Aちゃんが、いつまで経ってもパズルに夢中になっているのは、本人がいつまで経ってもそれを解けないでいるからに過ぎないのではなかろうか。



僕は昔から思うのだけど、人間にとって、飽きっぽさというのは、ひとつの才能なんじゃないだろうか。


結局のところ、Cちゃんが上のパズルゲームに飽きてしまったのは、彼がその本質を見抜いてしまっただろう。


一般に子供は飽きっぽいものだけれども、それは彼らの吸収力が大人のそれよりずっと高いからだろう。


大人はパズルゲームを与えられても、なかなか飽きることが出来ない。


しかし、ある種の子供たちは簡単にそれに飽きてしまう。



さて、本題に入ろう。


世の中には飽きっぽい人っていますね。


でも、この飽きっぽい人って、よく見ると、2種類ある。


Bちゃんのような人と、Cちゃんのような人。


前者は、難問に出くわすと、それを説くことが出来ず、それを説こうとして試行錯誤することに飽きてしまう人。


後者は、難問に出くわしても、それを難なく解いてしまい、もはやそれに興味を抱かない人。



ヘルマン・ヘッセの小説で「シッダールタ」という作品がありますね。


この小説には、2人の登場人物が出てきますね。


ひとりの名前はシッダールタ、もうひとりの名前はゴーヴィンダ。


2人は、お互いに思うところがあって、ともに年老いた沙門たちの元に弟子入りする。


しかし、シッダールタはあっという間に、その教えを習得しきってしまい、飽きてしまう。


ところが、ゴーヴィンダの方はいまだに悟りきらず、いつまでも彼らの弟子でいようとする。


その後、二人は、沙門を捨て、ゴータマなる仏陀の元に向うが、ゴーヴィンダだけが弟子入りし、シッダールタは弟子入りを見送る。


その後、長い歳月が過ぎて、二人は再会するが、そのときにおいても、ゴーヴィンダは相変わらず、ゴータマの弟子だったのに対して、シッダールタは誰の弟子でもなかった。


しいて言えば、川こそが、彼の師だった。


そして、より深い悟りを開いていたのは、シッダールタだった。



人間という者は、よいものに出会うと、それにいつまでも親しむものですね。


しかし、あまりそれを過大視しすぎると、いつまで経ってもそれから抜け出せず、それ以外の素晴らしいものに目が向かなくなったりします。


そして、それが、その人の人生を決定付けたりしますね。


例えば、こういう人っていますね。


音楽で言えば、クラシック音楽ばかり聞いている人、ジャズばかり聞いている人、ビートルズばかり聞いている人。


もっと広く言えば、音楽しか興味のない人、文学しか興味のない人、政治問題しか興味のない人、コンピュータしか興味のない人。


僕はそういう生き方って、もったいないなあと思う。


あるものが素晴らしいのはその通りなんだけれども、素晴らしいものはそれだけではないだろうにと思う。


人間は生涯をかけて、もっといろんなことに取り組んだらいいと思う。


で、僕は、昔から思うのですが、人間が見聞を広げるために、一番役に立つスキルは、実は、飽きっぽさなんじゃなかろうか。


飽きっぽさこそが、人間が執着から抜け出すためのもっとも有力な手段なんじゃなかろうか。


飽きっぽさは本質を見抜く能力であり、見切りをつける決断力の高さでもあると思うのですよ。



でも、この飽きっぽさというもの、案外、天賦の才能なんですよね。


僕ももうちょっと飽きっぽかったらと思うことがあります。


もうちょっと飽きっぽかったら、いつまでも同じことばかり考え込まなくてもいいのに。


もうちょっと飽きっぽかったら、いつまでも同じCDを繰り返し聞かなくて済むのに。


もうちょっと飽きっぽかったら、家の中のたいていのものは処分できるのに。


何て思うんですけどね。


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