世の中において、ある者たちは以下のように言う。


A.「人間の究極の目的は真理を求めることである。」


それに対して、ある者たちは以下のように言う。


B.「人間は真理を掴むことは出来ない。」


このふたつの意見は一見矛盾しているようにみえるけれども、実際には矛盾していない。


何故なら、あるものを得る方法は、必ずしも「掴む」ことばかりではないからだ。


少なくとも、人間は永遠に真理をつかめないにしても、それに近づくことは出来る。



だから、B.が正しいとしても、人間は悲観することはない。


B.以外にも出来ることはいろいろあるのだから。


いや、それ以前に、世の中には、間違った考えや欲望にとらわれて身動きが取れなくなっている者が少なからずいる。


そういう者は、真理の探究などと言う以前に、まず、その憑き物を落とすべきだろう。


人間は、日々、積極的に鍛錬し、反省するべきだ。


そうすれば、心の憑き物は、ひとつづつ落ちていき、心も軽くなっていく。


そして、理論上、捨てるものが何もなくなったら、それ以上、その人が精神的に何かしらを得る必要はなくなるのではないだろうか。


そして、そのとき、人間はこう思うのではなかろうか。


「もう真理などいらない。追求しようとも思わない。」


私は思うのだけれども、上のような状態において、その人が真理を追求しようと思わなくなるのは、彼がそれを得たからではなかろうか。


そもそも、私たちが「真理」と呼んでいるものは、何か正しいものが在る状態を指して言うのではなくて、むしろ、間違ったものが何も無い状態を指していうのではなかろうか。



人間は、私たち自身が真理と呼んでいる程度のものは、生まれたときには誰でも持っている。


逆に言えば、人間は、肉体とそれ以外には、何も持ち合わせてはいないぐらいだ。


しかし、それでは、彼が人間として生きていくことが出来ないので、親や環境がいろいろなことを教える。


また、本人も、生きていく途中で、いろいろと未熟な考えを編み出しては自分のものにしていく。


こうして、未成年期に詰め込まれた様々な知識や理屈や欲望には、矛盾や間違いが多い。


特に権威的なものや教条的なものの中にはそういったものがたくさん見受けられる。


そして、それらが真理と入れ替わり、人から真理を見せなくしてしまう。


人間が何の努力もなしに、真理に触れていられるのは、本人も覚えていないほど小さい頃だけだ。


だから、人間は、大人になって、それを取り戻さなければならなくなる。



では、それを取り戻すための一番確実な方法は何だろうか。


それは、自分が生まれてから得てきた既知の考えを見直して、その中から間違いを見つけては捨てていくことだ。


それが、誰にでも出来て、もっとも確実な方法だ。


仮に他のことをするにしても、まず最初にそれをしないことには、それらを実施しても何の成果も得られないだろう。



私自身は、この心の憑き物を落とすために、「心の薬」と呼んでいるものを作っている。


これを服用することで心の憑き物が落とせることを、私は自分の経験から知っている。


長年やってきた成果か、最近、私の心はとても軽い。


別に、私は偉くなったとかいう話ではない。


昔の自分に比べると、ずっと心が楽になったと言っているのである。



あともう少しのような気がする。



そして、出来るならば、私はこれまでの過程で生み出してきた「心の薬」の処方箋を記録しておきたい。


あとから来た人たちがいつでも誰でも利用できるように。




(* 余談として言えば、ある宗教家はこう言うかもしれない。


「人間は宗教によらなければ真理に到達することが出来ない。哲学や科学は、人間の精神における真理の探究に何も貢献しない。」


私はそれは違うと思う。


哲学や科学にも、「真理らしきものが真理ではないことを証明する能力」はある。


だから、もしある宗教団体の教義が、哲学や科学によって否定されるようであれば、それは間違いだ。


また、否定されないまでも、学問によって説明がつくようであれば、その結論が肯定的なものであっても、それはそもそも宗教が取り扱うべき領域の事柄ではないことが明らかにされる。


宗教の素晴らしさが科学的に証明される必要がないのは、芸術作品の美しさが科学的に証明される必要がないのと同じだ。


哲学や科学は、消去法によって、人を真理に近づける。


だから、それらは、真理ではないものを真理であると誤信して苦しんでいる者を救うことがある。)


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