最近、僕の文章を読んだ人から、どうしてこういう文章を書くのか、書けるのかと聞かれることが多いです。


自分では、書きたいことを書いているだけなんですけど、せっかくなので、2、3の文章について、ちょっと解説みたいなことも書いてみようかなと思っています。



まず、どうして、僕がこういう文章を書いているのかと言うことについてなんでが。

いくつかの話で書いていますが、僕は日韓ハーフでして、小さい頃から差別問題とかについて一人で考えていました。

で、25年ぐらい考えているのですが、そうすると、話がとても抽象化します。

その抽象化したことを文章にしています。その結果がこれらなんですね。




【随筆】僕にはイヤな人がいない
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10037819049.html


僕に嫌な人がいないというのは、僕の日韓ハーフとしての実感です。


’90年代以降、歴史認識に関する激しい議論がありましたが、その影響か、ネットでも日中韓お互いにひどい暴言を吐く人がたくさんいますね。

世間には、嫌韓派の日本人、反日派の韓国人が少なからずいるのでしょうが、僕自身、日韓ハーフなので、そのどちらにも心情的に同調することがないです。

僕が「日本人はみんなひどいやつらだ」と言ったら、日本人の父が悲しむでしょうし、「在日は日本から出て行け」と言ったら、在日の母が悲しむでしょう。

日韓ハーフの僕にとっては、日本人も韓国人も同胞であって、憎しみの対象ではないんですよね。

ところが、日本人(韓国人)にとって、韓国人(日本人)は同胞ではないためか、人によっては憎しみの対象になり得るんですよね。

それが僕には不思議だなあと思って。
(参考:善いサマリア人のたとえ)



反日感情、嫌韓感情にちなんで、人の憎しみについてもう少し書くと。

憎いものがある人は、それを憎む理由として、憎む対象が持つ欠点をいろいろとあげるのかもしれません。

これこれこういう理由があるから、私はあいつを憎むのだと。

本当にそうでしょうか。理由があるから憎むのでしょうか。

そうではないような気がします。

本当は、ただ憎いから憎める理由(自分の憎しみを正当化する理由)を探してるだけなんじゃないでしょうか。

また、そういった場合において、知識の豊富な人、頭のいい人、口の立つ人ほど、それをうまくやってのけるのかもしれないですけど、それが結局はご本人のためになってないような気がします。


あと、不思議だなあと思うんですけど。

ネットで上のような暴言を吐く人ってたくさんいますけど、身近にいる顔見知りの人にはそういう人っていないんですよね。

ネットで「○○は死ね」みたいな匿名の書き込みをよく見かけるんですけど、私の知人が目の前でそういったことを口にするのは見たことがないんですよね。

それは何でかなあと思って。


昔から、「車を運転すると人が変わる人がいる」って言いますけど、人間ってリアルな付き合いが希薄になるほど、本性が出るものなのかなと思ったりします。

人間の中には、内心に深い憎しみの感情を持った人がいるんだけど、そういう人でも、普段はある種の社交術でそれを隠しているものなのかもしれませんね。

例えば、駅のホームで割り込みをする人はいますけど、会社の社員食堂で同僚を押しのけて割り込む人はいないですよね。

ところが、匿名性が高くなると、そういった隠蔽をする必要がなくなるので、本性がむき出しになるのかなあと。


逆に言えば、顔見知りの人と目の前で付き合っている分には、そういう一方的な暴言を聞いたりすることはあまりないのかなと思ったりします。

そんなこともあって、僕の周りには、それほど嫌な人がいないのです。



【人生】感心すれど、感謝せず
http://ameblo.jp/toraji-com/entry-10036935619.html


よく歴史認識に関する論争で、保守系の学者なんかが、豊富な知識と弁論術を駆使して、一方的なことを言ってたりしますね。

「だから日本が悪いのだ。」とか、「だから韓国の方が悪かったのだ。」とか、「ナチスがユダヤ人を弾圧したのは正当なことだった。」とか。

そういう人を見ると、僕は、いつも「関心」するんですね。

すごい知識量だなあ、すごい弁論術だなあって。

でも、何故か、そういう弁論に対して、「感謝」する気が起きないんですよね。

その豊富な知識を、一方のためにではなくて、みんなのために公平に使ってくれればいいのになあって思う。



「あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」
Woe unto you, lawyers! for ye have taken away the key of knowledge: ye entered not in yourselves, and them that were entering in ye hindered.
(ルカによる福音書 11 52)



上の話は、芸術の場合も同じですね。

ゲーテがたしかこう言ってました。


「悪趣味に技術が結びつくと、これより恐ろしい芸術の敵はない。」


これはあるような気がします。

例えば、ミュージシャンで妙に技巧的な人っていますよね。バカテクの持ち主。

そういう人の演奏を聴くと、いつも「関心」するんですね。


「すごいなあ」って。


でも、何でだか、「感動」しないことが多いですね。
「すごいなあ」で終わってしまう。



世の中にはその逆の人もいますね。
全然音楽理論とかには詳しくないのに、とても感動的な音楽を作る人。
そういう人の音楽を聴くと、感心する前に感動してしまう。


「素敵だなあ」って。


そして、その感動に感謝するんですよね。


素敵な音楽を僕はもっと聴きたい。



ところで、全然関係ない話ですけど。

泣けるような感動的な作品を作るのは難しいですね。

泣けるような感動とは、鰹節のようなものなのかもしれません。

すぐに引き上げると出汁が出ないし、ぐつぐつ煮ると生臭くなる。

辛気臭さ、しみったれたお涙頂戴な感じを出さないで、素直に感動できるものだけ引き出す。

そういうことが出来る芸術家の人を見ると、素敵だなあって思う。


そういう文章を僕も書きたい。



何を言っているのか、分からなくなりましたが、また書きます。