A君「フェミニズムの研究をやる人の気持ちってよくわからないよな。」
僕「なんで?」
A君「だって、歴史の中で女性は男性から抑圧されてきて、そんな状況を打破しよう。女性にも男性同様の権利を!!って流れでもう結論分かってるやん。」
僕「確かにね。結論分かってるの研究してもなぁ。」
去年の8月位の会話。フェミニズム=平塚雷鳥、男性の抑圧への反発、女性にも権利を。
そんなイメージで、フェミニズムの結論はもう分かっている、なんてことをほざいていた。
しかし実際は、女性が歴史の中で抑圧されてきたことは共通の前提としてありながらも、現代フェミニズムは様々な学説が対立している。
「平等」を志向するフェミニストは、女性は抑圧されてきたのだから、男性と同じ法的権利はもちろんであるが、実際の社会生活においても、性別による一切の差別のない状態を実現していかなければならない、と主張する。
「子供産まれたら女性が仕事辞めて世話するっていう常識ありえないやろ!」
そんな感じかな。
しかし、この主張に対しては、「男性並み」になることを強いていることに過ぎず、現存する体制が持つ男性支配の構造に無自覚であるという批判が、男性と女性との差異を強調するフェミニストから提起される。
差異を強調するフェミニストである心理学者のギガリンによれば、女性は男性と比べて、人間同士のつながりや関係性を優先し、他者に対する「ケア」を大切なものと考える傾向がある。他方、男性は他人と切り離されることを求め、自分の権利にこだわる傾向がある。ギガリンは、この「ケア」の観点が正当に評価される社会こそが、「権利」中心に構築された男性中心社会を克服するものであると示唆する。
「男性の論理で構築された社会に女性の論理を取り込めよ!!社会の成り立ちから見直せよ!!」
と主張するわけです。
しかし、この主張に対して、平等主義のフェミニストからは、
「性別の差異を強調したらいいように理由付けられて男性支配の論理にまた絡みとられるやろ!!」
って再批判が行われるわけです。
さらにさらに、最近は第三の波も登場していて、
「差異や支配の構造は女性と女性の間にも存在するやろ」
ってことを主張する。社会的地位、文化や宗教、人種や民族、それらを除外して、「女性」でひとくくりにできなくない?ってことを言うわけです。
こんな風に現代のフェミニズムは、決して一枚岩じゃなく、その結論なんて決して決まっていない。だからこそ、去年の僕の会話は、知ったかぶり以外の何ものでもなく、フェミニズム研究を行っている人への侮辱です。
この場を借りてごめんなさい。
知ったかぶりをする人っていうのは軽薄で話していて僕は不愉快になります。だから、僕はそんな人間にはなりたくないと思う。
じゃあよく知らない物事については沈黙を守るのか?それも一つの知的誠実を貫く姿勢。
「我思う、ゆえに我沈黙す」
しかし、そんなことはなかなかできないのが人間ってものかね。色々と話していたら、よく知らないものに対しても、ああだ、こうだと言いたくなるやん。
最近のJ-POPはどうなんだ?外資系ってどうなんだ?最近の民主はどうなんだ?村上春樹ってどうなんだ?村上龍ってどうなんだ?官僚ってどうなんだ?mixiってどうなんだ?電子書籍ってどうなんだ?などなど。
よく知らないから「我沈黙す」。そんな態度を僕は取れない。
じゃあどうしよう。色々と考えた結果こんな結論が出た。
「僕もまた、僕が嫌う知ったかぶりをする軽薄な人間の一員だ。」
ということを正直に認めることである。
そして、そんな人間になっているときは、知ったかぶりをしている自分を自覚しつつ、対処する。そうでないとミイラ取りがミイラになってしまう。
大切なことは、ミイラなりかけで自分を抑制することで、完全体ミイラにならないようにすることだろう。