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1181年
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治承5年
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6月19日
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三浦納涼
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の(3)の訳です:
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その後、
源頼朝一行は、
衣笠(きぬがさ)城の戦で戦死した
三浦一族の当主
義明の居た場所を訪ねた。
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※三浦義明:
三浦一族の当主で
前年の1180(治承4)年8月27日、
当時平家方についていた
武蔵国(むさし・の・くに)の豪族
畠山重忠・河越重頼・江戸重長らを
衣笠城に迎え撃ち、
壮烈な戦死を遂げた。
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義明の後継者(次男)
三浦義澄は、
酒と飯を用意し、
その食膳は善美を尽くした。
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酒宴が進み、
君臣とも酔いが回った頃、
遊興(ゆうきょう)が始まった。
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すると、
岡崎四郎義実
(おかざき・の・しろう・よしざね)
─三浦義明の弟。
義澄の叔父(おじ)─が
頼朝の着ていた
水干(すいかん)の装束(しょうぞく)を
欲しがった。
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頼朝は
義実にそれを与えた。
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水干の装束
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義実は
頼朝から
着てみろと言われたので、
座りながら
水干をまとった。
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その様子を見ていた
上総介広常
(かずさのすけ・ひろつね)は、
非常に嫉妬(しっと)し、
こう言った:
「このような晴れがましい衣服は、
この広常のような者が
拝領すべきものだ。
義実のような老いぼれに
褒美(ほうび)をやるなど
思いもよらぬことである。」
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※上総介広常は
頼朝が石橋山の戦で敗れ、
房総半島に渡った際、
2万の兵を率いて
その傘下(さんか)に加わった。
その後も
常陸国(ひたち・の・くに)
─現在の茨城県─の
佐竹氏を征伐した際にも、
敵を調略して城を落とすなど、
際立った武功を挙げていた。
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岡崎義実は
この言葉に怒り、
次のように言い返した:
「広常には
確かに功績があろうが、
佐殿(すけどの)─頼朝様─
挙兵の時、
まっさきに参陣した
この義実の忠義とは
比べるべくもない。
わしに対抗しようなどと
考えるべきではないぞ。」
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※岡崎義実は若い頃、
"三浦の悪四郎"と呼ばれた
─"悪"は"猛々(たけだけ)しい"
という意味の接頭辞─。
1180(治承4)年8月23日の
石橋山の戦の時には、
まっさきに頼朝のもとに駆けつけ、
彼の長男佐奈田義忠は
頼朝軍の先陣となって
討死を遂げていた。
そのため、
参陣に遅刻して
頼朝から大目玉を喰らった
上総介広常と、
真っ先に参陣し息子まで死なせた
自分の功績とを比較して、
広常をたしなめたのである。
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その間、
互いの喧嘩は
大がかりな罵(ののし)り合いになり、
たちまちのうちに
決闘にまで及ぼうとした。
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頼朝は、
敢(あ)えて
一言も発しなかった。
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軽率に2人を宥(なだ)めるわけにも
いかなかったのだろう。
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この時、
三浦(佐原)義連が走って来て、
岡崎義実を叱ってこう言った:
「佐(すけ)殿(頼朝様)が
三浦に来られると
いうことになったので、
わが兄義澄が
懸命になって
支度(したく)に励んでいたのに、
そんなくだらない
見栄(みえ)を切って
どうするのですか。
もしかして、
年をとって気でも狂ったのですか。
広常殿の振舞(ふるまい)も
礼儀に叶わないことですぞ。
文句があるなら、
後日になさるがよい。
今、
殿の御前で興をそぐのは
まったくもって
けしからんことです。」
─義連はこう言って
再度2人を制した。
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※三浦義連:
佐原義連(さわら・の・よしつら)
ともいう。
三浦義明の末子で義澄の弟
(上の三浦一族の系図を参照)。
岡崎義実の甥(おい)。
衣笠城の戦では
兄義澄と大手口を守って奮戦し、
その後、
頼朝の寝所警固の一人に
選ばれた。
頼朝親衛隊の武士で、
源氏一族と一般御家人の
中間の地位にあった。
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そのため、
広常も義実も喧嘩をやめ、
その場は何事もなく収まった。
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義連が
頼朝からの信用を
さらに得たのは、
このようなことがあったからである。
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