冬の風物詩「世田谷のボロ市」 | 三太・ケンチク・日記

冬の風物詩「世田谷のボロ市」

冬の風物詩「世田谷のボロ市」が15日、始まった。「代官市見まわり行列」も行われ、地元町会や学生ら約50人が代官、家来らに扮して練り歩いた。ボロ市は400年以上続く庶民の年中行事。世田谷代官屋敷を中心に東西に延びる約1キロの通称「ボロ市通り」には、古道具焼き物、正月飾りなどの露店約700軒が並んだ。「見まわり行列」は、この地を治めていた代官がボロ市の際、「けんかをしない」などの達しが守られているか、村役人らと見て回ったという故事にちなむ。ボロ市は16日、1月15、16日にも開かれる。
という記事が、朝日新聞のローカル版に載ってました。

ドン、ド~ンと朝の9時に「ボロ市」始まりの花火があがります。夜の9時にもドン、ド~ンと終わりの花火があがります。珍しいかな、手袋もしないで行ったのは。昨日はそれほど寒くなく、行って来ましたよ、「世田谷ボロ市」へ。人出はそれほど多くなかったですね、昨日は。まあ、これも毎年の僕の恒例の行事ですが。今日は昨日よりも気温も高くいいお天気ですから、昨日よりは人出が多いのではないかな。

ボロ市」の歴史をちょいとおさらいすると、天正6年(1578)、後北条氏が世田谷新宿に「楽市」を認めたことに始まります。「楽市」は、誰でも自由に営業できるようにした市のことで、今でいう「フリー・マーケット」といったところでしょう。この楽市は1と6の日、すなわち月に6日開かれましたが、近世に入ると年一回の歳の市(暮市)となり、毎年12月15日に催されたようです。この市では、正月用品や農具、日用品のほか、着物のつくろいやワラジのしんなどに使うボロを売っていたので、「ボロ市」と呼ばれるようになりました。幕末にはボロ市は12月15日だけでなく翌16日にも開かれ、明治6年(1873)に太陽暦が採用されると、12月のほか1月にも市が開かれるようになり、現在のように年2回の市になりました。(参考:世田谷区立郷土資料館

なにを買うということもなく、まあ、ボロ市通りを往復して冷やかして歩くのですが。混んでるときには、歩けないぐらい混むときもありましたよ。うっかりすると将棋倒しになっちゃうぐらい。まあ、いろいろありますよ。古い着物は外人さんに人気がありますね。古いカメラ、って、みんな古いですけど、大工道具、好きじゃない人には「がらくた」としか思えないモノばかりですが。以前、ボロ市で買った油彩画が「誰々さん描いた本物」だったということもありました。まあ、ミケランジェロの「木彫りのキリスト」のようなものは見つからないでしょうけど。毎年僕が買うのは小さな「招き猫」、小学校のPTAのおばさんたちが売っています。そうそう近くの「豪徳寺」、「招き猫」の本家ですけど。豪徳寺には井伊直弼のお墓があります。というか、世田谷は元々、徳川三代将軍家光が寛永10年(1933)、彦根藩主井伊直孝に世田谷領の一部を江戸屋敷の賄領として与えたのですから。

その中心の位置にある「代官屋敷」は、元文4年(1739)大場氏が代官を受け継ぎ、明治維新に至るまでこの屋敷を住居兼役所として使用していました。屋敷は茅葺きの寄せ棟づくりで、建坪は約230㎡、玄関、役所、役所次の間、代官の居間、切腹の間、名主の詰め所等があり、今から250年前の古い建物です。庭には在任を取り調べたという白砂跡があります。ボロ市の当日には代官は「上下(かみしも)」に意義を整え、世田谷村名主、年寄り以下棒引き人即などを従えて、行列を組み、市場内を見回って治安の維持に当たりました。(参考:大場代官屋敷保存会

昨日は、10cmぐらいの「達磨」の立像を買いました。実は僕、集めていいるんですよ、達磨さんを。あまりマニアックな蒐集癖ってないんですけど、むかし鳴子で買った小さな「こけし達磨」があって、ある時、それを見るともっとあるんじゃないかと思い探し始めました。でもただの達磨さんじゃない、大きさはそうですね、10cmぐらいの「こけし達磨」ですね、基本はですね。木を彫ったヤツとか、石でもいいんですが。そういうちょっとしたこだわりがあるんです。紙でつくった「張りぼて」の達磨はたくさんあるんですけど、これは駄目です。なかなか気に入った達磨がないんですよ。まだ15個ぐらいかな、集めたのは!ところが聞いて下さいよ、昨日買った達磨、オフィスクリーナーを吹き付けて拭いたら、なんと顔とか着物とか台座の黒い絵の具がハゲ出しちゃいました。と、まあ、インチキ商品をつかまされるところもご愛敬、安かったからいいですけどねっ。