新興数寄屋の教祖・吉田五十八 | 三太・ケンチク・日記

新興数寄屋の教祖・吉田五十八

吉田五十八のことは五島美術館の設計者としてちょっと書きましたが、戦後日本を代表する建築家です。芸大教授で、芸術院会員で、文化勲章受章者です。そうはいってもご存じの方は極々少ないかもしれません。じゃあ、これなら知ってるでしょう、「太田胃酸、い~い薬です!」のCMでおなじみの薬。吉田五十八は、太田胃酸を経営する家に日本橋で生まれました。「五十八」と書いて「いそや」と読みます。父親が58歳の時の子供だったので「考えるのも面倒だから、俺の歳を名前にしちまえ」と、言ったとか、言わなかったとか?15歳の時に母方の実家を継ぎ吉田姓になります。

19歳で東京美術学校に入学、病気を理由になかなか卒業しないで、そこでたくさんの将来のクライアントに出会うんですね。また姉の影響で、このお姉さんが五十八を甘やかせて育てた張本人、その影響で五十八も趣味人で、長唄やおの関係でも交友が広い。設計した作品は、住宅では「小林古径邸」、「杵屋六左衛衛門別邸」、「吉屋信子邸」、「山口蓬春邸」、岩波茂雄の「岩波別邸」、「吉住小三郎邸」など、そうそうたる名前が並んでいます。また料亭では一流どころが目白押し、「ぼたん」や「つる家」、「金田中」や芥川賞の選考会をやるので有名な「新喜楽」。その他に「歌舞伎座」、「大和文華館」、「五島美術館」、「外務省飯倉公館」や、「中宮寺本堂」、「成田山新勝寺本堂」も、まあ、イヤというほどありますね、挙げればキリがない。これだけクライアントに恵まれた人もそうはいません。新興数寄屋の教祖、しかし、建築界からの評価は意外に低い?そこが不思議なところなんですが、まあ、それはそれとして・・・

で、画像にアップしてある「吉田邸」の話。吉田は1944年に二宮町に居を構え、自邸を設計しました。当時は床面積が30坪に制限されていましたが、その後増築を重ねて50坪ほどの床面積になっています。建築家の自邸は、よくその考え方が表れると言われています。しかし吉田も1974年に亡くなり、夫人も亡くなり、持ち主が変わったことで、1998年5月に日本建築学会は保存要望書を出します。そこに吉田邸の特徴が余すところなく書いてあります。
「この自邸は彼のデザインの本質である簡素な造形のなかに日本的な美しさを求めようとする建築思想をきわめてよく表現したものであり、日本の近代住宅建築史の中でも貴重な建築であります。また表門から玄関前庭と座敷から続く南の主庭の巧みな大和絵のような空間は、芝庭に日本庭園の構成を込めた和洋折衷的な試みを示したもので、吉田の自邸と一体をなす庭園として貴重なものです。」とあります。要は、現在の持ち主に対して、個人住宅といえども貴重な文化遺産なので、将来共なんらかの形で保存を考慮して欲しいという、勝手に壊さないで欲しいという要望ですが。

僕が吉田の作品で知ってるのは、住宅や私的な建物が多いこともありますが、意外に少ない。先日見た「五島美術館」、これは簡素な作品です。それから清水谷公園の前、ニューオータニの新館のところにあった「紀尾井町の家」、これは水谷八重子の家ですね。もちろん壊されてしまいましたが。それから昭和43年の「中宮寺本堂」、これは法隆寺夢殿の隣、というか、奥にある尼寺です。池と堂とが組み合わされて浮き御堂の形になっていて、「山吹寺」の名にかなうよう、池の周りには山吹が咲き乱れるというものです。夢殿まで行っても、その奥まで行く人は少ないのですが。

それから、赤坂一ツ木通りにある(というか、今もあるかどうか確認していませんが)美術工芸品店の「貴多川」、これは昭和45年の作品ですね。瓦屋根の木造2階建て、床面積はたった46坪しかなく、1階の前半分が店舗でうしろと2階が住まいという「ミニチュア作品」です。水沢工務店だったと思うんですが、工事中から随分丁寧な仕事をしているので、気になってずっと見ていましたが、それが吉田五十八の最晩年の作品だったとは、あとで知ったことでした。なにしろ正面右側にアルミパイプを組んだ下地窓風のショーウィンドウがひとつあるだけ、左側には入り口、貴多川という切り文字が京壁風仕上げに取り付けていて、お客は右に向きを変えて自動ドアでお店へ入るという小さなお店なんです。しばらく赤坂へは行ってないので、どうなったか?

世田谷の等々力には成田山の大衆性とは反対の静粛のお寺「満願寺」や、世田谷区に寄贈し世田谷トラスト協会が運営、自由に見学できる成城5丁目「猪俣邸庭園」があるそうです。近いうちに是非とも行きたいものです。