京都冷泉家「国宝明月記」リターンマッチ | 三太・ケンチク・日記

京都冷泉家「国宝明月記」リターンマッチ

国宝「明月記」は京都の冷泉家に伝わる藤原定家(1162―1241)の日記です。その全巻を展示してあるということなので、ちょいと出かけてみるかと、上野毛の「五島美術館」へ行った。ところが、いやはやビックリ、案に相違して長蛇の列。あまい、国宝がそんなに簡単に見られるわけがない。とりあえず今日は、すごすごと引き下がってきました。

と、まあ、20日の日にはこのブログにこう書いたのですが、このまま引き下がるのは悔しいので、昨日、行って来ましたよ、リターンマッチに成功、「国宝」を見て来ました。ホント「いわし雲」がすばらしい日でしたが、さてさて画像に五島美術館から見た「いわし雲」が上手く映っているかどうか?お天気もさわやかでしたが、なぜか先日よりは人が少なくて、とはいえ、熱心なファンが多いのか、そこそこの人が来てはいました。

国宝「明月記」は、京都の冷泉家に伝わる藤原定家(1162-1241)の日記である。偉大な歌人であり歌学者・古典学者の定家は、平安から鎌倉へと移る動乱の時代を生きた王朝貴族であった。80年の生涯を、克明に記録した国宝「明月記」全58巻を一挙公開。

定家は、19歳の治承4年(1180)から80歳で没する仁治2年(1241)まで日記を書いていました。そのうち国宝「明月記」(58巻、補写本1巻他)は、建久3年(1192)31歳から天福元年(1233)72歳までのものです。上流貴族の毎日を記録した膨大な日記の内容は、源平の争乱、京都の公家と後の鎌倉幕府となる武家との関係、宮廷の様子、故実・和歌文学等の様々な見聞があり、当時の政治・文化・社会情勢を知る上で第一級の史料であることは誰もが認めるところです。

と、まあ、ここまでチラシを引き写すだけでも大変!

さて、展示室に入ると薄暗く照明が落としてあり、ガラス張りの中に国宝「明月記」の巻物が展示してありました。なにしろ数が多いのには驚きます。虫食いなどは、国宝になるときに補修し直したと聞きました。そうそう、冷泉家から「発見」されたのは、確か昭和55年頃だったとか?達筆かどうかは分かりませんが、なにしろ書き慣れている「」がすばらしい。としか言いようがない。どうも「漢文」らしい?まあ、いくら見ていてもほとんど読めない、内容ももちろん分からない。「明月記」の一部は冷泉家から外部へ散逸しているらしい?他に、西行筆や源家長筆、慈円層状消息など、国宝・重要文化財のオンパレードでしたが。

「明月記」はそんなことで、ただ見たというだけに終わったので、後日、勉強しようと決心した次第。でも、五島美術館の庭園が、聞いてはいましたが、実際歩いてみてすばらしいということを発見。庭園の中の要所要所にある石灯籠六地蔵が、なんともはやすばらしい。ちょっと高低差がきついのが、お年寄りにはどうかなということはありますが。入園料100円ですから、四季折々にまた来て散策したいと思いました。

五島美術館」は、東急王国の総師五島慶太が、建築家吉田五十八に依頼して建てたもの。五島慶太は明治15年に長野県に生まれた。東京帝大法科を出て鉄道院に入り、その後東急の母体である目黒蒲田電鉄を設立。次々に私鉄を買収、合併してその規模を拡大していった。鉄道と不動産だけでなく、バス、デパート、映画と手を広げ東急王国を築いた。その後、文化事業にも力を注ぎ、五島育英会をつくり、学校経営なども熱心に進めた。昭和34年8月、美術館の工事半ばにその完成を見ることなく、五島は77歳の生涯を終えたという。