「TOMOの風」の名前の由来 | 次世代型小型風力発電機 TOMOの風

「TOMOの風」の名前の由来

7月28日、3日間の東京出張を終え、浜松のモノレール乗り場に駆け付けたところ、降りてきた一人の女性に目が止まりました。背格好といい、顔形といい、愛らしい仕草まで、妻の若かりし頃に瓜二つ、年の頃三十歳前後の女性は急ぎ足で風のように去って行きました。鹿児島に帰り就寝するまで虚しく寂しい余韻が続きが眠れませんでした。

私の妻は、一昨年3月8日に満58歳を一期としてすい臓がんで死去し、36年間の結婚生活に終わりを告げました。
名前は「野元ともみ」平仮名で書くと「のもとともみ」で、愛称「ともちゃん」でした。
前から呼んでも「山本山」、後ろから呼んでも「山本山」という海苔の名前じゃありませんが、本人は自分で「山本山」みたいなフルネームを結構気に入っていたようで、初対面の人にけらけらと笑いながら「変な名前でしょう」と言って得意げに披露していました。

私たちは社内恋愛の末、私が25歳、妻は22歳の年に結婚し、私は無一文でしたが妻と友人たちの支援を受け28歳で独立、妻は幼子の息子二人の子守りをしながら経理を担当し、家庭でも会社に於いても、多忙な私をそつなく支え続けてくれました。
時間が経つのは早いもので、気がついてみるとサラリーマンの同級生は定年を迎え、妻も働きづくめだったことも有り、そろそろ引退をして、ゆっくりと旅行でもしながら余生を過ごそうと話しあっていた矢先の思いがけない余命三カ月の告知でした。
私は翌日、役員や幹部社員を集め暫く妻の看病に専念することを告げ、発症してから八ヶ月間を、病室で妻と寝食をともにしながら、先端医療を受けるため横浜、東京、名古屋、京都の病院を月に二回の頻度で治療に行きました。

死去するまでの間、余命を告げられていることは一切オフレコにして励まし続けていましたので、何も知らない妻は完治したら仕事を辞めてどこどこに旅行に行きたいと言っていました。私にはとても悲しく辛い日々でしたが極力明るく振る舞い妻の話を聞いていました。
私には今まで辛い別れが幾度かあり人生の儚さは知り尽くしたつもりでいましたが、伴侶との別れが一番辛く悲しく、生きていく楽しみは失われ、人生観まで変わってしまいました。
死去した翌年は藍綬褒章を浴しましたので、一緒に苦労してきた妻の遺髪を胸にしまい、遺影を持って皇居に行き天皇陛下のお言葉を頂きました。

さて、皆さんから「何故風力発電の開発に着手したのですか」「TOMOの風の名前の由来は何ですか」と聞かれます。ちなみに海外では『T.W.E.』=『Tomo Window energy』でデビューしますが、そこでも同じような質問にあいます。

そういったとき、私は、亡くなった家内が旅行に行った思い出の地、連れて行けなかったが行きたかったところに妻の愛称「TOMO」をつけた風力発電機を取り付け、皆さまのお役にたちながら、その「TOMOの風」を設置してある現場ひとつひとつに、亡き妻への想いと共に私自身が尋ねて周りたいとお話しています。


開発に当たっては全てが自社開発であり「日本が誇れる繊細な技術」「斬新で有効性のある新規の技術」「末代まで使用できる耐久性のあるミニ発電所」をコンセプトとして、今までの概念が変わるような近未来型小型風力発電機が誕生しました。

主任研究員は風の動きを知り尽くし、徹底した探究心と、奇想天外な発想の持ち主です。
このブログを見て頂いている貴方様とご縁があることを祈念し、少しセンチメンタルになりながら掲載させていただきます。