futebolのつぶやき2011年8月5日
高校サッカーの指導から離れたのに、理由あって高校サッカーを見る機会がある。
たまたま千葉県の高校選手権の一次予選を何試合か見た。
色々なチームがある。
とりあえずサッカーをやってるチーム。
集まったメンバーでベストを尽くそうとしているチーム。
真剣に上を目指そうとしているチーム。
選手がメンバーを決めて戦っているチーム(先生はただの引率)。
負けても笑ってるチーム。
負けて本気で泣いているチーム。
勝って当然の顔をしているチーム。
勝って抱き合って喜んでいるチーム。
色々なモチベートを否定はしない。
100人いたら100通りのサッカーがあっていい。
1対0で進んだ試合が、後半のロスタイム、ラストプレーでミドルシュートが突き刺さるという、劇的なシーンも目撃できた。
追いつかれた側は、まるで敗れたチームの様に崩れ落ちた。これから延長戦だというのに。
しかし、勝ったのは追いつかれて、一度は崩れ落ちたチームだった。
延長戦であっけなくゴールを決め、追いついたチームは涙を飲んだ。
次の試合になり、シャツを出してだらしないチームと、諦めずに戦う好感の持てるチームの対戦はPK戦にもつれ込んだ。
大きな声で勝ちたいという気持ちをお互いが出していた。
好感の持てる側のGKが、ものすごい形相でゴールマウスに立ち、PKを弾き出す。
サッカーの神様はいるんだと思った。
だからサッカーは面白い。
そんな試合は勝者と敗者のコントラストもはっきり見えてくる。
この世の終わりのような表情をした高校生たちに多少の抵抗を感じるけれど。
もしかしたらサッカーは高校までって感じてるのかな。
僕はサッカーは楽しいって事を伝えたい。
高校サッカーが終着点にはなって欲しくない。
エンジョイの為のフットサルで週1回ぐらい汗をかくのもよし。
真剣に競技として上を目指してもよし。
スタジアムに足を運ぶのもよし。
そんなことを考えてTVをつけたら、なんと知り合いが映った。
息子さんが全日本少年サッカー大会に出場するんだね。
そういう追っかけも楽しいだろうね。
FUTEBOLは楽しい。
自己紹介
boa tarde!
なんとなくいくつかやっているブログがまとまらなくなってきたので、重複してもいいので、改めてやってみようと思います。
自分の事を知っている方も知らない方も、今回は自己紹介ということで。
※っていうか、かなり長くなりますのでご注意を…飽きたら読むのを止めてください…
1975年9月17日千葉県生
気が付いたら母親と祖父母という家族構成。
近所には従兄弟もたくさん住んでいて、その従兄弟の家にあったサッカーボールを蹴ったのが、今思えばサッカーとの出会い。
千葉県内某小学校、
小学校3年生の時に地域で盛んだったソフトボールに自然の流れで入る。
正直、3年生の時は嫌で嫌でしょうがなかった。
『キャプテン翼』の影響で小学校4年生の時にサッカーに触れる。
それでも身の回りにサッカーをしている友達もいなかったので、当時は野球のほうに興味があった。
野球は西武ライオンズのファン。釣りに夢中になったのもこのころから。
6年生で最後のソフトボールの大会も終わって、ソフトボールの監督に、『お前野球は向いてない』と言われて納得する(笑)
近所の先輩や友達からは色々と誘われる。
テニス、
野球、
何故かギター
祖母に『おばあちゃん、テニスがかっこいいと思うな』と言われて引く。個人的にテニスウェアがかっこいいと思えなかったし、それでテニスという選択肢が消える。
友人に、『野球好きなら野球やればいいじゃん』と言われたけど、どうしてももう一度やりたいという気になれなかった。
一つ上の先輩にばったり会って、その先輩がサッカー部に入った事を知る。
キャプテン翼に影響されていた頃の血が騒いだ。
何となく新聞を見たら高校選手権の日程が目に入った。
『千葉会場で全国大会が見られる!』
そして母親に連れて行ってもらった。
枯れた芝の上でボールを追いかける姿に影響された。
中学校でサッカー部に入る。
正直、仮入部で球拾いをする気になれず、家に帰って小学校でボールを蹴った。
教えてくれる人なんかいなかった。
壁に向かってボールを蹴った。
本入部後、球拾いが苦痛だった。
部活を友達とサボった。
先輩の不祥事で、部活動が停止になり、正直心の中でガッツポーズをしてた。
堂々と家に帰って、小学校の校庭でボールを蹴った。
友達と遊ぶ延長で蹴るだけ…でも球拾いよりマシだった。
夏休みになった。
3年生が大会で負けたことでいなくなり、僕たちも練習する事が出来た。
正直、子供の世界の力関係や、顧問の先生の年功序列で決めるメンバーが嫌だった。
もちろん、試合には出られなかった。
今でも苦しんでいる腰痛の始まりもこの頃だった。
1年生大会でぼろ負けした。
0-10だった。
2年生になり、夏前から練習試合で時々使ってもらえるようになった。
そして出番か?と思っていた大会で、何故か使ってもらえなかった。
顧問の先生が嫌いになった。
自分たちの代になり、キャプテンになれなかった。
ますます顧問の先生が嫌いになった。
翌日、先生に呼ばれた。
『なんでお前をキャプテンにも副キャプテンにもしなかったかわかるか?』
心の中で『わかんねーよ』と言っていた。
『お前を役職に入れると、助ける奴がいなくなるからだ』
わけがわからなかった。
絶対に言うことを聞いてやろうと思わなくなった。
3年生になって顧問が変わった。
本当に嬉しかった。
サッカーが楽しかった。
そして、勝てなかった。
練習試合で勝ったのは2回だけだった。
公式戦では一度も勝てなかった。
名門校に行くためだけに勉強した。
隣のクラスの先生に止められた。
『お前に言われたくねーよ』と本気で思った。
担任はやりたいようにやらせてくれた。
某名門校に合格した。
そしてサッカー部に入った。
挫折した。
何もできなかった。
春休みから練習に参加しているエリートと、一般入試で入学式が終わってからノコノコ入ってくる奴との差は歴然だった。
春に受けた某JクラブのBチームなら、ちょうど5月から活動すると聞いていたので、そのタイミングに乗った。
高校のサッカー部を辞めた。
苦痛だった。
何のために高校に行っているのかわからなかった。
週に何回かの練習に夜通うだけでは、上手くなれないと思ってた。
しかも選手登録をしてもらえなかった。
『君たちは2年生になってもユースのAチームに昇格させられないから、試合に出られるチームを探してくれ』
そして、スクールという週1回の環境になり、社会人のチームに入った。
大人と接する事が勉強にはなった。
でも、学校に行くのは苦痛だった。
中学1年生の時に知ったブラジル留学の話を母親にした時、『行けばいいじゃん』と言われていた。
『高校を卒業したらブラジルに行こう』
とにかく、高校は卒業するためだけに通っていた。
小学校のグランドで夜中ボールを蹴る回数も更に増えていた。
高校を卒業して、ブラジル人と偶然知り合った。
毎日草サッカーをした。
朝ボールを蹴って、昼にとんかつ屋でバイトしながら、ボールが見えなくなっても、友人やブラジル人の友人たちとボールを蹴った。
阪神大震災の直後、ブラジルサッカー留学の面接に行った。
95年4月、ブラジルに行った。
全然違う世界だった。
たった1カ月で影響された。
5月にビザの関係で帰ってきた。
毎日追い込んだ。
またブラジルでプレーすることしか頭になかった。
9月、またブラジルに渡った。
状況が全く変わっていた。
挫折した。
現実は本当に厳しかった。
12月、クリスマス休みの関係で、日本に帰ってきた。
また毎日追い込んだ。
1月、ブラジルに戻った。
またまた厳しい状況だった。
それでも、楽しくなってきた。
アマチュアだけど、公式戦にも出してもらえた。
8月末、日本に帰ることになった。
ブラジルにまた行きたかった。
でも、現実が許してくれなかった。
渋々アルバイトを始めた。
セレクションも受けた。
受からなかった。
正直、22歳、大卒が出てくる歳になって、サッカー選手を諦めざるを得なかった。
いや、もともと才能がなかったんだ。
ちょっとした縁で少年サッカーのコーチを始める。
またちょっとした縁で某高校のサッカー部のコーチを始める。
またまたちょっとした縁で某フットサル施設の仕事を始める。
稼げる額は少なかったけど、サッカーで稼げるようになった。
結婚した。
子供が生まれた。
12年間勤めた、高校のサッカー部のコーチを辞めた。
サッカーで喰ってますと胸を張って言えるように、七転八倒中…
というわけで今に至ります。
長文失礼しました…。