1年前から水面下で準備を進めてきたコミュニティFM局を2013年1月11日11時に開局します。
12月18日総務省九州総合通信局より予備免許が下りて、試験放送を無事に終えて27日に正式な放送免許が交付されました。
ステーションネームは、コミュニティラジオ天神(愛称:コミてん)コールサイン:JOZZ0CA-FM
周波数77.7MHz 放送エリアは、出力20Wと微弱電波なため福岡市中央区を中心に隣接する博多区、南区の一部になります。
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Ustreamでスタジオからライブ放送をするので、音楽以外はインターネット環境があれば視聴できます。2月からはインターネットでのサイマル放送を始めますので、国内はもちろんアジアを中心に世界中で聴取できます。
ラジオの受信機が、車中心からパソコンやスマホに移行してきたので、ながら聴取が出来るメディア特性を活かした番組制作やプロモーションを展開していきます。
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         2012年12月25日付 読売新聞 朝刊掲載
ソーシャルビジネスの情報発信基地として、フォーエバー21、H&M、ZARA、アバクロが立ち並ぶトレンディな天神西通り大名地区にスタジオを設置しました。(福岡市中央区大名1-12-5アペゼビル2F)
スタジオへ気軽に足を運べるように、カフェを併設しています。
フィンランドより日本初出店のロバーツ・コーヒーをテナントとして誘致できたので、新しいコミュニティ・スポットとして話題を呼んでいる。
日本経済新聞や日経MJにも記事が掲載され、コーヒーの果肉を使った胃への刺激が少ない「おなかエスプレッソ」など12月21日のOPEN以降たくさんの来店で賑わっている。
ハーフタイム

2010年7月に古巣の広告代理店を退職独立してから2年5ヶ月目にして、フィフティ・パートナーズのビジョンの一つを形にすることできた。
ハーフタイムの準備期間も終えて、セカンドステージに向けての後半戦がスタートします。新年1月11日11時キックオフ
このブログはエピローグを迎えましたが、「コミてん」を中心としたコミュニティメディアパートナーズ福岡の展開は、これからが本格的な活動のスタートとなるプロローグです。


私が広告代理店時代の30年間を過ごした天神西通り大名地区にソーシャルビジネスの拠点となる地域情報発信基地を開設した。
コミュニティFMを中心にインターネットでの動画配信、ソーシャルメディアを活用したプロモーション、情報誌やイベント、通信販売など広告会社の企画・制作機能をもった総合プロデュース会社「株式会社コミュニティメディアパートナーズ福岡」を有志9名で設立し取締役に就任した。
私はここを名付けて「予防の城」と位置づけている。
コミュニティFMの提供機能の一つとして、防災、防犯情報や地域活性の安心安全への寄与などの使命も帯びている。ならば行政だけでは解決できない都会ならではの諸問題に対して、地域放送局として積極的に取り組んでいきたい。
あらゆる事件や事故などの人災や発病などの悲劇が起こる前に、未然に防ぐことはできなかったのかといつも思う。
必要な時に必要な人へ役立つ情報を提供していきたい。それもインターネットを活用した双方向コミュニケーションじゃないと意味がないと思っている。素朴な疑問、質問に対してのQ&A、専門家の意見や地域生活者のいろんな角度からの意見、提案を交流できる議論の場をつくって行きたいと考えている。
ハーフタイム

     2012年11月6日付 西日本新聞 朝刊掲載
アジアの拠点都市として国際化が進む福岡市では、鳥インフルエンザやエイズなどの感染症、覚せい剤や脱法ハーブ、薬物中毒防止。通り魔、ひったくり盗難、痴漢、ストーカー、万引き、振り込め詐欺などの都市型の犯罪防止。自殺、いじめ、非行、セクハラ、DV、幼児虐待などの社会問題。キャッチセールス、違法駐車、自転車事故、飲酒運転、暴走、ポイ捨てなど都市が抱えるさまざまな問題に対しての予防と対策を番組とネットを通して普及啓蒙していきたい。
特に個人的には予防医学として生活習慣病への対策。早期発見を目的に、ドクターによる情報発信と地域医療との連携を促進していきたい。
やがて地方の時代。地方分権がかなり進んだ時に福岡がモデル都市として、成功事例を全国の地方自治体へ情報提供できるコミュニティ放送局ネットワーク網を確立していく。
米国の地方のケーブル局だったCNNが今や世界へニュース配信しているように、「コミてん」もコミュニティ・ニュース・ネットワーク(CNN)として、地方から全国、アジアへ情報発信できるようになりたい。まだ個人的な妄想ではあるが、どうせやるなら気概をもって大きなビジョンを掲げたい。
古来より福岡は水城をはじめ防人が全国から集まり、大陸からの攻撃に備えた防護拠点であったことは、元寇防塁跡など歴史上の史跡としても残っている。
昨年は東日本大震災や福島原発事故など想定外の大惨事が発生するなど、今年は尖閣、竹島問題など緊迫する東アジア情勢を考えると今はどんな災難が起こるか予測できない時代。危機管理体制の整備に万全はないと思う。

<編集後記>
当初3ヶ月間の予定で始めたこのブログ「ハーフタイム(転換期)」も開設して2年3ヶ月が過ぎました。1年9ヶ月の空白もこの1ヶ月で書き上げました。もうすぐ人生の後半戦開始のホイッスルが鳴り響きます。
次回の更新記事「キックオフ」でハーフタイムのブログは最終回です。
来年から新しいタイトルで別のブログを立ち上げる予定です。今度の裏タイトルは「ファイアウォール」です。
1年9ヵ月ぶりにブログの再開を始めたきっかけがある。それは先月13日に広告代理店時代の仲間とのOB会に北九州へ行った時のことである。
時間もあるので、のんびりJR快速電車で行こうと思って、本でも読もうと書店で手にしたのが直木賞作家、石田衣良「フォーティ40翼ふたたび」帯に人生終わりと思ったら、40歳が始まりだったのコピーに眼が留まり、投げやりに始めたプロデュース業。同世代の依頼人との出会いが喜一を変えた。挫折の先にある希望を見つめた感動長編。サブコピーにも興味を持った。
著者のプロフィールを見ると私と同じ1960年生まれで広告制作会社勤務を経て作家デビューと書いてあったので、益々面白そうだと思ってそのままレジでお金を払ってすぐに列車に乗り込んだ。
主人公の吉松喜一は、40歳で大手広告代理店を退職して、独立した先輩に誘われて広告プロダクションに転職したが、水が合わず孤立して5ヶ月で辞めてしまいフリーのプロデューサーになった。
前職の時代から10年来の仕事仲間であり友人であるモリタニADの事務所を間借りしての営業だった。社長の良平はデザイナー、卓巳は喜一と同年のコピーライター。それに事務の佐和子の4人だけの小さな会社だった。自分のプロデュース業のPRになればと思って始めたのがホームページのブログサイト「40」フォーティ。人結び、人集め。40歳から始めよう~何でもプロデュースします!のキャッチフレーズで、広告とは無縁の小さな仕事しか入らず、その日暮らしのじり貧生活を送っていた。
物語はブログサイトを通して訪れる凋落した同世代の依頼人たち。元IT企業社長から引きこもりまで、リアルな苦悩を赤裸々に開示しながら、明日への希望を持って一歩踏み出そうとしていく現実が自分自身の体験とオーバーラップして、主人公への感情移入が深まり一気にページをめくって読み入った。
$ハーフタイム
そんなある日、先輩ルートの人脈で新興出版社から新創刊イベントのコンペ案件が舞い込み、離散していた昔の仲間を捜し求めてゴールデンファイブのチームを再結成する。中高年向けの転職求人情報誌が今回PRする新媒体。イベント予算3000万円の6社競合コンペを勝ち取った。企画の目玉は喜一のブログに登場する人物が出演するノンフィクションの演劇舞台で普通の中年のリアルな物語。
ラストシーンは、同僚のコピーライター卓巳が肺がんを患い抗癌治療中の車椅子での出演と同じ職場の佐和子に舞台の観客前で台本にはないプロポーズをするシーンは思わず泣けてしまった。
それは13年前に会社の同僚である友人を胃癌で亡くしたことと被ってしまった。同じ40歳という若さでこの世を去った彼のことを想いだ出さずにはいられなかった。もっと早く病院に行っていたら助かった命かもしれない。国費で受けられる40歳の人間ドックまで我慢していたようです。
私が福岡で部門長時代に彼は北九州の部門長として、ライバルであり会社では数少ない高卒同志で、よく幹部会議の後に一緒に飲んだことが、走馬灯のように想い出されて涙が溢れて止まらなかった。次は小倉と車掌のアナウンスが入ってまもなくホームへ到着。

40歳から始めよう。「フォーティ40翼ふたたび」 この本を13年前に40歳で他界した今は亡き盟友、塚崎征四郎氏に捧げる。  (冨永 利之)
「何かお役に立つことはございませんか?」一軒一軒、ふれあいの輪を広げながら、喜びのタネまきをすること。
ダスキンの創業者:鈴木清一氏の著書『めい・あい・へるぷ・ゆう』が1976年ダイヤモンド社から刊行された。
利潤を目的としない生活者のための流通チャンネル「愛の店」ネットワーク構築をめざすダスキン建国宣言を行う。自らダスキンフランチャイズチェーン事業本部長を兼務して陣頭指揮で「愛の店」づくりに注力されていた。1980年に68歳で永眠された直後の先代の意志を受け継いでの事業展開だった。
その「愛の店」加盟店の広告展開シリーズの提案が、私の最初に受けた大型案件のプレゼンテーションだった。当時は外部ブレーンであった師匠の井上ディレクターに依頼して、創ってもらった企画書が「小さな翼」をコンセプトに、主婦をターゲットにした新聞シリーズ広告だった。
大空へ舞い上がるのではなく、天使のような小さな翼で少しだけ羽ばたきたい。そんな気持ちを後押しするリードコピー。シリーズ最終回は「ママがきれいになった。」幼い子供がクレヨンで書いた手描きヘッドコピーの読売新聞テレビ面直下3段の新聞広告。
プレゼンテーションは成功し一発でOKとなった。
広告業界の新人として、「コトバ」の力を痛烈に思い知らされた感動の成果であった。
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ダスキン本社への大阪出張の際に偶然立ち寄った御堂筋の淀屋橋で、豪商「淀屋」の石碑に脚が止まった。江戸時代に架けられたこの橋は、幕府行政ではなく町人である豪商・淀屋の主が資財を出して建造したと記されてました。渡し賃を取ることもなく無料で市民が往来できた。
関西商人といえば日常挨拶の中で「まいど!儲かりまっか」と声を掛けられると「お陰様で」と返答されるが、実はお陰とは「陰徳」を積むことを指しているそうです。
人に知られない善行。ひそかに施す恩徳。かくれた功績。という意味で、陰徳あれば陽報ありに通じている。平たく言えば、ゴミを捨てないのが道徳で、ゴミを拾うのが陰徳だそうです。
私は広告コミュニケーションを通して、誰かのために「明日への架け橋」として役立てるようになろうと熱く情熱に燃えた時のことを忘れてはならないと肝に銘じた。
師匠との再会が、30年前の原点回帰を思い出させてくれる良い機会となった。そして今、新しいコミュニティFMの開局に向けて、同じ志のパートナーが集まった。
(フィフティ・パートナーズ 冨永 利之 )
広告の師匠である井上ディレクターとの最初の仕事が株式会社ダスキンの「愛の店」FC加盟店募集の提案でした。今から30年前のことです。
日本にフランチャイズシステムを導入した草分け的な企業であり、「祈りの経営」という独自性のある和魂洋才の優良企業です。
私もダスキンの創業者:鈴木清一氏の著書である「われ損の道をゆく」を読んで衝撃的な感銘を覚えたと同時に、それから後の自分の人生や仕事の選択に大きく影響を受けたバイブルでもある。
プレゼンテーションの前に、ダスキンの経営理念を繰り返し音読した。

一日一日と今日こそは あなたの人生が(私の人生が)新しく生まれ変わるチャンスです。 自分に対しては損と得とあらば損の道を行くこと。他人に対しては喜びの種まきをすること。我も他(私もあなたも)物心ともに豊かになり(物も心も豊かになり)生きがいのある世の中にすること。 合掌
とても奥が深くて、当時の私には100%理解することは無理でした。

「人と損得の争いになったら、私は迷わず損の道を選び、得は人に与える」 「商売の損得や合理主義が、人間としての生き方と相反するものであってはならない」と述べていました。
ダスキンは人の嫌がることで、誰もが手をつけて無い世界でひとつのことを新規事業にする。
私が提唱するフィフティ・パートナーズは、この理念をルーツとして進化させたものです。
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1964年、世界一のワックスメーカーのジョンソン社に自社ケントクを乗っ取られた鈴木清一氏が、かねて師事していた一燈園の西田天香さんに相談された時のことが、「敗れざる者」(PHP刊)で紹介されています。
今度のことはお光があなたに課した”行”だと思いなさい。辛く悲しい行です。でもその行を経て、あなたの中に新しいものが育ったとき、そこから新しいひこばえが育つのです。誰も恨んじゃいけません。全部自分への諭しだと思って、感謝して受け止めなさい。」
鈴木氏はその諭を聞いて、はじめて人間的な迷いが吹っ切れた。そして53歳でもう一度ゼロから出発し、1970年にはミスタードーナツの新規事業をはじめ、現在のダスキン王国を創りあげた。
鈴木氏は若いとき結核で死ぬ寸前までいったが養母の愛情に救われ、その後京都の一燈園に入園。以後托鉢求道の人生を歩まれた。
一燈園のトイレ掃除の厳しい托鉢修行を抜きには語れない。無一文・路頭を原点とし欲望への執着心を断ち切り、利己心を浄化させ無一文の立場で路頭に立つ修行。自分には何もない、これが人間本来の姿なのだと悟る修行である。ダスキンの研修としても修行に参加されています。

余談ではあるが人のご縁とは不思議なもので、15年後に京都の一燈園当番(代表)西田多戈止さんのご依頼により、1995年にサンメッセ日南のオープニングのイベントを、私が部門長をしていた企画開発部で担当することになりました。
牧場跡地の再開発を自治体の要請を受けて、イースタート島の完全復刻版モアイ像を目玉にしたテーマパークの施設開発を、関連会社ブロスと一緒にプロジェクトを組んで企画・設計・プロデュースを実施した。
「太陽の丘」と「地球感謝の鐘」は、ぜひ一度は訪れて欲しい聖地です。
これも何かのご縁。人と人とのつながりは大切にしていかなければならないと改めて感じさせられた出来事でした。
(フィフティ・パートナーズ 冨永 利之)