エピローグを書きはじめた時は今後どうなっていくかまだ不明確だったのだけど、無事、7月31日が最終出社日となりました。




退勤間際の30分間はレジを打っていた。時間になり、次のお客さんで最後、とカウンターの中で最後のお客様を待った。すると、自分と同年代ぐらいの男性がカウンターに商品を持ってきた。背は高いが病的に細く、色白でどこか生気を欠く、貧相な青年だった。青年は白い封筒を買っていった。




この青年が僕にとって最後のお客さんとなったわけだが、彼が買った白い封筒は僕にあることを思い出させた。



3年前、研修生として始めて配属されたお店でレジを打つ僕は憂鬱な気持ちでいっぱいだった。慣れない社会人生活が重苦しく感じられ、これがこの先ずっと続くのかと思うと、沼に放り投げられた気分になった。



そんな陰気な店員のレジに一人の老人が並んだ。体中の水分が全部抜き取られてしまったんじゃないかと思うほどに、老人の身体はからからで、歩行すらままならない状態だった(余談ではあるけれど、今の日本が抱える様々な問題の中で、最も深刻かつ、早急な対策が求められるのは少子高齢化の問題であると個人的に思う)。

老人はふらふらになりながら、ゆっくりとポケットの中から小銭を取り出した。ゴルフ番組をスローで見ているようなじれったさがあった。二酸化炭素の排出権取引みたいに「時間」もコントロールできたらいいのにな、と思う。金額分の小銭がカウンターの上に揃った時は、赤ん坊が初めて立った時のようなちょっとした感動があった。





その老人が買った商品は「履歴書」だった。





誰かにパシられたのかもしれない、何かと買い間違えたのかもしれない、あるいはシュールなジョークだったのかもしれない、事の真相はわからないけれど、やはり僕は「この老人は履歴書を買って、求職し、何かを始めるつもりなんだ」という履歴書をお買い上げのお客様にあてはまる一般的な仮説をこの老人にも同様に適用したい。じいさん、あんた一体何を始めようとしてるんだ?、と僕の心は昂ぶった。その老人の買い物によって、僕たちは自由であり、可能性は無限だ、と勇気が湧いた。どんな賢人のどんな文言でさえ、これほどドラスティックに他人を啓発することはできないだろうと思う。




青年が買った封筒を見て、あの時の昂ぶりを思い出した。あの老人は今どこで何をしているだろう?





仕事を終えた時、自分は何を感じるだろうか、何を求めるだろうか、どのような余韻が用意されているのだろうか、ということに関心があった。しかし、実際は特に何も感じなかったし、何かを求めたりもしなかった。感慨深いものはなかったし、解放感もなかった。将来に対する不安が押し寄せたりもしないし、祝いの大酒を飲む気もない。じゃあ、美味しいでも食べに行こうか、と思ったが、馬鹿らしくなってやめた。退職を申し出て、受理されるまでの一ヶ月の間に、たくさんのことを感じたし、たくさんのことを考えた。いまさら、余韻も何もない。そう考えると、やはり僕はしかるべきタイミングでしかるべき場所で、しかるべき決断をしたのだと実感した。つまり、全て必然的だったんだと思う。




帰宅し、コインランドリーの大きな洗濯機に洗濯物を放り込んだ。ワイシャツやらジーパンがぐるぐるとまわっている間、銭湯につかり、風呂上りにビールを飲んだ。コインランドリーに戻り、洗濯物を乾燥機に移し変え、ワイシャツやらジーパンが再びぐるぐると回っている間、煙草を吸った。




家に戻って、このブログを最初から読み返した。ほとんど全てに失笑した。何、言ってんだ俺は、と。途中で読み返すのもやめた。





ほとんどが呆れる内容で、このブログを書き続けた意味は何だったんだろうと自分自身に不信感を感じずにはいられなかったけど、その一方でこの3年間で本当に多くの人に出会ったんだな、と改めて感じた。ハットリ君や緒川さんは元気にしているだろうか(2006年2月23日『ハットリ君は自分を探し、緒川さんは南房総を勧める』参照)。




お世話になった多くの人に心から感謝したい。







最初の記事で(2005年12月21日『一寸の虫なのだから、五分の魂くらい燃やさなくてはならない』)僕は自分自身について、以下のように書いている。やはり自ら失笑してしまう文面だけど、人はそう簡単に変われないし、変えられないし、変わらないな、と感じる。人生に対する自分の青臭い姿勢や夢見がちな態度が社会の中で生き残れるかどうか。この3年間は自分にとって、壮大で挑戦的な自己確認だった。



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とにかく、僕は山本ジャーニーという名前で、男で、23歳で、不細工で、小デブで、コンビニエンスストアで働いている。ファッションセンスは絶望的で、車にも興味はない、オシャレなレストランなんて一つも知らない。そういうわけで(そういうわけじゃないんだけろうけど)、女の子にはまるでもてない。


そんな僕が畏れながら思うことは、誰よりも人生を楽しんでやろうということだ。大胆にも、真剣にそう考えている。


どんなに偉い政治家だって、どんなにすごいお金持ちだって、

偉業を成し遂げた歴史的人物だって、僕より人生を笑ってなかったら何の意味もない。そう思う。



それが僕だ。



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そう、それが僕だ。